軍部が首を縦に振らなければ内閣が吹っ飛ぶ
明治憲法下の内閣には、陸軍大臣・海軍大臣という軍部大臣職があったが、これらの大臣に就任できるのは現役の軍人(大将か中将)だけに限るとする制度。
明治憲法では軍人の人事は天皇大権に属するとされていたので、総理大臣といえども組閣に当たっては陸海軍から軍部大臣を出してもらう必要があった。
「腹切り問答」の余波で廣田弘毅内閣が閣内不一致で総辞職した後、組閣の大命(実際には元老・西園寺公望が天皇に奏薦した人物に組閣の命が下される)を受けたのは、予備役陸軍大将の宇垣一成(うがきかずしげ)だった。過去に軍縮を推し進めた宇垣を陸軍参謀本部は警戒し、陸軍大臣に誰も就かないように内部工作を行う。
予備役陸軍大将の宇垣は、自らを現役復帰させて陸相を兼任しようと図るが失敗。けっきょく宇垣は組閣を断念する。
軍部大臣を現役限定とすることで、予備役や退役した将軍・提督にも大臣就任の資格がないとするルールは厳格に守られた。
軍部大臣現役武官制が生まれた背景
天皇からの組閣の命令を受けた人物でも、陸海軍大臣を軍部から出してもらわなければ内閣を組むこともできない。また組閣が成ったとしても、軍部と内閣が対立した場合には、「大臣を引き上げる」という方法で内閣を総辞職に追い込むことが可能で、この制度によって軍部の政治への影響力は圧倒的に大きくなった。
軍部大臣現役武官制は長州(山口)出身の山縣有朋(元勲・公爵・陸軍元帥)が、第2次山縣内閣で制定したことにはじまる。当時の軍は長州出身者が陸軍を、薩摩出身者が海軍を牛耳る形だった。帝国議会開設で政党政治家が力を付けてきたことに対抗して、薩長閥勢力の保持のために設けられたとも言われる。
その後、大正デモクラシーの時代、第1次山本権兵衛(やまもとごんのひょうえ:薩摩出身の海軍大将・伯爵)内閣の時、現役規定が外され、予備役や退役などの大将・中将でも軍部大臣に就任可能となった。
第一次護憲運動、大正政変など藩閥政治への批判が燃え上がる世相を受けて、薩摩出身の山本首相と、加賀出身で日露戦争で活躍した陸軍中将・木越安綱(きごしやすつな)陸相が、陸軍の猛反発を押し切ったかたちだった。
「現役」武官制はなぜ復活した?
昭和に入り軍部の勢力が台頭していく中、1936年(昭和11年)2月26日、「昭和維新」を掲げた陸軍青年将校に主導される形で、国家クーデタ未遂事件「二・二六事件」が起こる。2月29日には蹶起勢力は鎮圧されるが、事件後の調査で真崎甚三郎と荒木貞夫の2人の陸軍大将の事件への関与が疑われた。両大将は事件後予備役に編入され、陸軍組織内での発言力は封殺された。
しかし、将来の内閣組閣に当たり、予備役の両大臣は陸軍大臣になる資格を有していることになる。彼らが陸軍大臣として軍に返り咲くことを防ぐという目的で、二・二六事件後に発足した廣田内閣で、軍部大臣現役武官制は復活した。
その結果、廣田内閣は自らが復活させた「現役」武官制により翌年命脈を断たれることになる。のみならず、宇垣一成の組閣失敗、1940年の米内光政内閣が畑俊六陸相の辞職によって倒閣するなど、軍部の専横は広がり続けていく。
◆山本内閣で現役規定が外される際、軍部は猛反発したという(当時、陸軍省に勤務していた宇垣が反対の急先鋒だったという皮肉な話もある)。
以来、軍部は現役規定復活のチャンスをずっと伺っていたのではないか。そのように思われて仕方がない。現役規定は、軍部の意思を政治に反映させる強権的な手段として極めて有効だ。真崎、荒木の2人の大将を悪者にしてでも、軍の利益を採ろうとした人物がいたのではないか。
天皇の軍、国家の軍でありながら、軍のための軍としての行動をとり続けた昭和の陸海軍。縦割りの組織・予算割りの中で自らの勢力拡大を図るべく動くのは、国家中枢で権力を持つ組織のせめぎ合いという点で、現在の官僚にも通じるところがあるかもしれない。少なくとも、いつの世にも省益最大化のための極めて精緻なシナリオを描く人物が組織のどこかにいるということは間違いないだろう。
文●井上良太