息子へ。東北からの手紙(2013年11月30日)

今日の手紙は東北ではなく東京から。

このところ、東北で活動する人たちが東京など被災地外の場所で「報告会」を開くことが多い。10月からの2カ月間で、こども∞感ぱにー(こどぱにー)、ロシナンテスといった、親しくしてもらっている団体の報告会が3回。来週には大船渡の新沼タカさんたちの集いも東京で開かれる。

夏場には石巻2.0のバーが約1カ月間限定で銀座にオープンしたりもした。これも「報告会」と同様の目的を持ったイベントだった。陸前高田で「瓦Re:KEY HOLDER」と「ハイカラごはん 職人工房」を手掛ける人たちは、故郷である札幌と頻繁に行き来している。

被災地で活動する人たちが「東京」にやってくる理由

たくさんの団体や人々が被災地を飛び出してやってくる目的は2つある。

ひとつは、被災地のことを忘れないでほしいという「風化させない活動」としての意味合いだ。東北のことを伝えるニュースはどんどん少なくなっている。しかも、たとえば原発の汚染水とか、震災遺構とか話題になった単発テーマのニュースが連発されるばかり(それはそれぞれ重要なのだが)で、日常的な話題が取り上げられることはほとんどなくなった。

手書きの壁新聞で知られる石巻日日新聞の社長、近江弘一さんは「震災を風化させない活動」として、全国各地で講演会を行っている。「これまでに何カ所くらい回りましたか?」と今年の初めに訊いてみたが、「もう自分じゃわかんねぇんだよ」という返事だった。数えきれないくらい、という意味だ。しかも、報道部長の武内宏之さん(現・常務取締役)も講演活動を行っているので、もしかしたら「風化させない活動」の実施回数は本当に把握していないのかもしれない。

伝え続けていかなければ、どんどん薄まってしまう。そんな切実さがある。

汚染水は大問題だし、もちろん震災遺構も被災地のみならず全国の人に関わる問題だ。しかし、住宅の再建すら進まない町に暮らしている人たちにとっては、もっと身近なことを知ってほしい思いもある。災害復興住宅の建設が進まないとか、防潮堤がどうなるかが大問題だとか、小学校の合併でこども達が減るんじゃないか心配とか、そんな話も聞いてほしい。知ってほしい。

知ってほしい話は山ほどある。

たとえば鮭が川に戻って来たとか、今年の牡蠣は大きくて美味しいから食べに来てほしいとか、東北沿岸部を代表する郷土の舞踊である「獅子舞」と「虎舞」が共演するから見に来てほしいな、とか。

東北の人たちが心のどこかで不安に思っていること。それは「自分たち、もう忘れられてしまっているのではないだろうか」ということだ。仲良くなった人から時々聞かれることがある。

「最近、外では被災地のことどんなふうに思われているのかなあ? ニュースとかで伝えられているのかな?」

返答に窮してしまう。

「いまでも思い出すのが辛い記憶ではあるけれど、津波の直後のことを話すことで、被災地の外側の人たちが災害のこと、家族を守ることを真剣に考えてくれるきっかけになるんだったら、自分はどこにでも行って話すつもりだよ」

仮設住宅住まいの不自由な生活をおくりつつ、地元を元気づける活動を続けている人たちから、そんな話を聞くことも少なくない。

手渡された気持ちは、相手を温かくする

そしてもうひとつの大きな理由は、お金だ。

たとえ著名な団体でも、運営はキツい。潤沢な資金がで活動している団体など聞いたことがない。NPOでも、税制の優遇を受けられない任意団体でも、活動資金は喫緊の重要課題だ。

震災から1年間は、国や自治体から被災地での活動に対する資金援助が比較的たくさんあった(企画コンペで採用されて助成金をもらうという形)。ところがまる1年過ぎた2012年3月、助成金の案件と金額がガクンと大きく減った。高速道路無料の制度が段階的に削られていったのも大きかった。2年目には、外部から被災地に入って活動する団体が目に見えて激減した。

被災地から県外避難している人たちに支援を行っている団体への援助も削られた。自身も福島第一原発事故で被災して、静岡県に避難している人たちへのサポートを行ってきた「はままつ東北交流館」のように、自治体からの支援が打ち切られ、カンパと持ち出しでの運営に切り替えた人たちもいる。

助成金がなくなったから活動を縮小したところは多い。でも、活動の内容によっては、助成が切られたからといって打ち切るわけにはいかない活動もある。

震災から2年を迎えた今年2013年の3月。さらに多くの団体が現地での組織的な活動から「卒業」していった。復興へのフェーズが変わって、必要とされる活動が変化してきたからといった理由もあったが、資金の問題も大きかったと聞く。

いまも被災地で活動を続けている人たちは、「やめるわけにはいかない」という強い思いから続けている人たちだ。

やるべきこと、やりたいことは山ほどあるけど、自分たちの身の丈に合った活動を続けるけることで精いっぱいという話を、いろいろな人から聞く。みんなギリギリで活動している。

いまでも被災地支援の募金は続いている。1000日が経過したいまも募金額は増加し続けている。いいことだと思う。でも、募金箱に貼られたラベル、ウェブ募金の贈られる先を確認してみてほしい。ほとんどの募金箱には「日本赤十字を通じて」と記されているだろう。その募金箱に入れられた志のお金は、いつか何らかの形で被災地のために使われることになるだろう。だが、被災地の「この活動に」という形で用途を指定して支援することはできない。

赤十字などへの義援金も大切だけど、被災地で活動しているNPOや任意団体のために使われるわけではない。

最近「東京」で報告会を行っている僕の知り合いは、国や自治体が気づかなかったり、公共の立場の人では動きにくい活動を体を張って続けている「本物」の人たちだ。

ヒトモノカネが集まる東京をはじめとして、全国各地で報告会が行われるのは、状況が切実だからだ。でも考えてみたら、本物たちが現場を離れて報告活動をしなければならないなんて、おかしいと思わないか?

使ってもらうことで生まれるお金の価値

大船渡の新沼さんに、お前がお小遣いから拠出した支援金を渡した時の顔が忘れらられない。

「きしょー!ありがたい。お子さんは何歳? そう、中学生か。新沼が礼を言っていたって、くれぐれもよろしく伝えてくださいね」

お金って使い方次第で金額とは別の価値が出てくるんだなぁって、その時は思った。でも、東京出張「報告会」に出席するうち、ちょっと考えが変わった。

お金って、いい使い方をしてもらうことではじめて価値が生まれるんだ。

対価ではない価値が。