リアス・アーク美術館にある「被災物」と震災のリアリティ

「ノアの方舟」から名付けられた美術館で、会期が定められていない展覧会が続けられている。会場に足を踏み入れると、「モノ」と「言葉」が絡まり合った記憶の森が目の前に広がる。森は見た目の広さからは想像できないほど深く、そこここに物語の果実があふれている。たとえばこんな感じだ。

ギア軸
2011.12.1
気仙沼市中みなと町

 俺の愛車、バイクなんですけど、ナナハンです。自宅のガレージにおいてたものですけど、流されはしませんでしたが、丸焼けでした。
 それがね、びっくりしましたよ。アルミのパーツが、全部溶けて、ないんですよ。フレームとタンクと、フロントフォークくらいですかね、残ってたのは。
 エンジンも溶けて、ミッションギアが、フレームの下に転がってました。マジかよって思いましたね。記念にとっておくことにしました。愛車の形見として。

引用元:リアス・アーク美術館「東日本大震災の記録と津波の災害史」展示キャプション

ご存知のとおり気仙沼市は津波によって大きな被害を受けた。浸水地域では家々が破壊され流された。木造の建物はもちろん、鉄骨や鉄筋コンクリート造の建物の中にも破壊されたものが少なくなかった。さらに、津波に乗って移動する火災に広い範囲が襲われた。町を歩けば今でも、火災の熱で飴のように変形したガードレールや、元々の姿が何だったのかまったく判らない熱に熔かされて固まった物体を目にすることができる。そんな町の片隅で、愛車の形見が見つかる。

第三者なのか当事者か

ナナハンのエンジンがあった辺りにころりと転がっていたギア――。

美術館の照明に浮かび上がる「モノ」と「言葉」によって、彼のガレージの光景が目の前に像を結ぶ。幻影のように見えてくるガレージは、おそらく壁の一部が抜け落ち、焼け錆びた鉄骨の向こうには焼け跡のようになった町並みが広がっていたことだろう。大型ダンプが走り過ぎていく音と、何台もの重機が動き回る音が聞こえてくる。屋根にいくつかあいた穴から差し込んでくる日差しの光線の中を、廃墟と化した町をただよう埃が、光りながら風に流れていたかもしれない。

これはもはや幻影ではない。
記された記録から物語を引っ張り出し始めた人にとって、脳の中に見た風景とリアルな現実の境界は、想像を重ねれば重ねただけ曖昧になっていく。錆びたギアとハガキの宛先面に記されたキャプションが、時間も場所も越えて、ここにいる人間と、あの日、あの場所を繋ぎ留める。
展覧会を企画し実行した学芸員の山内宏泰さんは、そのことをきっぱりと言い切った。

 当事者というと、直接的な被災者、否応なく突き付けられた当事者性をもった者のみと社会は定義してしまう。しかし別な形の当事者性をもった者もいる。獲得された当事者性である。(中略)また覚醒する当事者性というものもあるだろう。
 当事者、第三者という立ち位置は被災の有無によってのみ決定するものではない。被災していなくても当事者性が獲得される一方で、被災者でありながら第三者化してしまう場合もある。

引用元:リアス・アーク美術館「東日本大震災の記録と津波の災害史」展示キャプション「Key word ■記憶・・・当事者と第三者■」より部分

さらに、インタビューではこんな言葉も。

「世の中って簡単にリアルとかリアリティという言葉を使いますが、リアリティって本来、外側にあるものではなくて、内側で生まれるもの、というか内側で意識されるものなんです。当事者性について書いたのは、まさに自分の中に本当の意味のリアリティが芽生えるということ。私たちはリアリティを持ってほしいんです。他人事ではなくて、本当の意味でのリアリティを」

関東圏はもとより関西でも長時間にわたる揺れに見舞われ、首都圏では何万人もの帰宅難民が発生したあの日、「今回の地震は東北だけでなく日本中の多くの人が当事者になってしまった」と思った。しかし、当事者としての意識はたちまち薄れて、いまでは震災を話題にするのを避ける空気まで感じるほどだ。
その一方で、震災の後に現地に入った人たちには当事者でないことを大きな負い目として感じている人がたくさんいる。被災地の外側から「私にはこんなことしかできないから」と、なけなしの支援を続けている人もいる。

「当事者性」は取り戻したり、獲得したり、覚醒することができるという山内さんの言葉は、震災を経験しなかったという負い目を感じている人たちを勇気づけるものだろう。
そして、この言葉は同時に、日本中の人がもう一度当事者性を取り戻す可能性を示すものでもある。

「モノ」と「言葉」からの連想によって、現実とのつながりが再び結ばれていく場所。リアス・アーク美術館の展示室には、写真203点、被災物155点、歴史資料など137点という膨大な数にのぼる「あの日と未来をつなげる」展示が繰り広げられている。

被災した人を被災者と呼ぶように

被災現場から集められた資料は展示されたものの数倍にのぼる。
撮影写真は約30,000点。入手したモノは約250点。山内さんたちは如何にして膨大な資料や写真を収集したのだろうか。

「震災から3日目には、記録をとるという明確な意識を美術館として確認し、その翌日から被災地に入って活動を始めました。被災した人たちは町の現状を見ることはまずありません。なぜなら避難所にいるからです。消防組織の中では記録をとることを進言した人があったそうですが、今はそんな時じゃないだろうとの一喝で退けられたそうです。教育委員会は文化財担当の1人を除いて他全員が避難所となっている学校の支援に回っていました。市役所も同様です。つまり、誰も記録をとる人間がいなかったのです。マスコミの人たちは写真を撮りに町に入っていましたが、彼らにはその場所がどんな場所で、そこでどんな営みが行われていたのかが分からない。そんなことは土地の人間でなければ分からないわけです」

家や工場や船や漁具やクルマや、ありとあらゆる生活用品で埋め尽くされた被災地で、山内さんたちは「ここはどこだろう」という手がかりを探すことから始め、場所の特定ができた後は、生活者が見ていたであろう立ち位置を想像して、記録としての写真を撮影する。そんな活動を町の端から端まで通しで行った。

被災地の写真はマスコミなどたくさんの人の手で撮影されたが、展覧会に来場した地元の人からは、「たしかに、自分たちが見た景色はこれだった」という声が聞かれたという。現地を知っているかどうか、震災の前にあった空気感をどれだけ肌感覚として持っているか。そのことで写真の質も訴えるものも変わる。つまり、リアリティが違ってくる。

町中を埋め尽くしていた「モノ」に対する考え方や姿勢も同様だ。

 被災した私たちにとって「ガレキ」などという物はない。それらは破壊され、奪われた大切な家であり、家財であり、何よりも、大切な人生の記憶である。例えゴミのような姿になっていても、その価値が失われたわけではない。

引用元:リアス・アーク美術館「東日本大震災の記録と津波の災害史」展示キャプション「Key word ■記憶・・・ガレキ■」

自分たちが使ってきたモノを、ある時を境に急にゴミ扱いすることはできない。おそらく当たり前の感覚だったに違いない。そして、この言葉が生まれた。

リアス・アーク美術館「東日本大震災の記録と津波の災害史」展示キャプション「被災した人を被災者と呼ぶように、被災した物は被災物と呼べばいい。ガレキという言葉を使わず、被災物と表現してほしい。」

あれはゴミじゃないのよ――。
女川でも大槌でも聞いた言葉だった。山のように積み上げられたモノを間近に見た時、生活の記憶がしみ込んだモノの巨大な集合体に胸が詰まる思いがしたのを覚えている。
山内さんの提言は鮮やかだ。
「ガレキという言葉を使わず、被災物と表現してほしい」

被災地で見捨てられたモノから、被災地のリアリティをつむぎだす。
実話である必要はない。被災物の背景にある物語を想像することで、リアリティが内側から芽生えていく。他人事ではない自分事としての感覚が深まっていく。

いま被災地では津波被害を受けた地域の整理が進んでいる。被災物を見つけるのが困難なほどに、復旧に向けての土木工事が進んでいる町もある。このままでは、津波被害の実像が見えにくくなってしまう懸念もあるだろう。震災や津波へのリアリティを持たないまま、次なる天災の時を迎えてしまう恐れもある。これは深刻な問題だ。
しかし、リアス・アーク美術館に行けば、被災物を身近に感じることができる。
未来の自分たちが、そしてまた将来の世代が、次に来る大災害による被害を軽減するためには、今回の震災をリアルに受け止め、自分のこととして反省を積むことが絶対に欠かせない。
気仙沼のリアス・アーク美術館で展示されているのは、未来の自分たちを生かすための手がかりなのだと思う。

※山内さんのロングインタビューを近日、別記事として掲載する予定です。

リアス・アーク美術館

宮城県気仙沼市赤岩牧沢138-5

●TEXT+PHOTO:井上良太