道の両側に夏草に覆われるようにガレキの山があった。
ガレキの山のそばには、何隻もの漁船が打ち上げられたまま放置されていた。
打ち上げられた?――しかし、それがとんでもない考え違いだと、ガツンと思い知らされることになる。
はままつ東北交流館などが企画した「3年目の被災地 第3回福島視察ツアー」の目的地のひとつ、浪江町請戸(うけど)地区でのことだ。
原発から約5kmの請戸地区は原発事故の後、一般の立ち入りが制限されてきたため、震災で津波被害を受けた直後の状態が今も残されている。漁港としても有名だった請戸地区には津波で流されてきた漁船も多い。
ツアーに参加した人たちは、ガレキの山、一本道のはるかかなたに見える原発、そして漁船にカメラを向けてシャッターを切る。自分も写真を撮らずにいられなかった。だって、そこに広がる光景は非日常のもの。見たことのないもの、信じられない現実と関わるには、何かをせずにいられない。手っ取り早いのがシャッターを切ること。撮った写真を知り合いに見せて「こんなだったんだよ」と話したりすることできるかもしれないと考えることでしか、この場所とつながっていけないような、奇妙な切迫感があった。
その時、バスで一緒になった人が、
「ちょっと、これ見てよ」と声を飛ばした。
ほら、この船尾のところ、誰かが土を掘ってる。スクリューが埋もれないようにしているみたいだ。
まさか、と思った。
津波に翻弄されて、海からここまで流されてきて、そのまま放置されている漁船だと決めつけていた。「船主さんは無念だっただろうな」とか、「まだ線量が高い中、どうやって撤去するんだろう」とか、そんなふうにしか見ていなかった。
しかし、夏草をかき分けてよく見てみると、知人の指摘の通り船尾のスクリューの下の泥が掘り返されていた。流されてきた船の下にもぐり込んで土を掘り出すなんて、そうとう大変な作業だ。いったい何のために?
答えはひとつしかなかった。
「この船、回収して直して使うつもりなんじゃないかな。でなければわざわざスクリューが埋もれないようにしたりしないよね」
彼の言うとおりだった。
よく見ると、船尾だけでなく、舳の部分も持ち上げられていて、大型土嚢が噛ませてあった。間違いなく、いつかこの船を吊り上げて、トレーラーに載せて搬送して、修復した上で海に戻そうという意思がそこに見て取れた。
夏草に半分埋もれていてよく分からなかったが、同じようにスクリューの辺りの土砂が取り除かれた漁船はほかにもあった。ほかにもあったというより、ひっくり返ったり転がったりしていない船のほとんどに、応急の処置が施されていた。
陸地に流された船を見ると思いだす話がある。1年前、南相馬の漁港で出会った漁師のお爺ちゃんの話だ。
「オレの船も1隻は国道のところまで流されちゃってな。トレーラーかなにか運べば何とか使えそうだったんだが、ここまで持ってくるのに1000万かかるっていうからな、潰したんだよ」
あぁそうか、1000万円もかかるなら仕方がないんだろうなと、その時は平然と話を受け止めていた。
けど、違う。
お爺ちゃんはいろいろ考えた末に、泣く泣く船を処分したに違いない。
いつか漁を再開したい。でも原発がどうなるか、先行きが見えない。
間違いない。いろいろ考えたうえでの苦渋の決断だったんだ。
かつて住宅地だったという請戸の交差点の近くで自分の船を見つけた時、
第一福徳丸や第一吉祥丸の主はどう思ったか。
おそらく防護服を着て、マスクもつけて、しかも滞在時間が限られる中、
クレーンかジャッキか何かで船を少し持ち上げて、
船の下に潜り込むようにして穴を掘って、
さらに地面との間に大型土嚢を噛ませて、
「おい、いつか必ず迎えに来るからな」
船の主たちはこの場所で、自分の船に語りかけていたに違いない。
ガレキなんて、ない。ありえない。
話があちこち飛んでしまって申し訳ないのだけれど、南相馬で船を処分したお爺ちゃんがその決断をした後、自分の船に何を語ったのかを想像したら、これまで1年もの間誤解し続けてきたことが申し訳なくなった。
船だけじゃない。
自動車だってそうだ。農機具だって、ハウスの骨組みだって、土木作業の機械だって、学習机だって、キューピー人形だって。ガレキと呼ばれてきたものの1つひとつ、すべてが、誰かと、一緒にあった物。
そんなものが、一瞬にして廃棄物扱いされる物体に変わってしまう――。
そこに、地震や津波、原子力災害の現実がある。
そのことを見て、心に刻んで、つないで行くことが、
かつてこの場所にあり、失われてしまったたたくさんの「生活」に報いることになる。
ガレキなんて、ない。
ここにあるのは非日常なんかでも、ない。
かつてあり、これからも起こりうる現実だ。
繰り返しになるけれど、
ここにあるのは、未来の現実だ。
●TEXT+PHOTO:井上良太(ライター)