大曲浜獅子舞保存会の伊藤会長とともに建てられたばかりの真新しい神社を訪れた。
宮城県東松島市大曲浜地区にある玉造神社。
大曲浜獅子舞保存会は、震災前、獅子頭や太鼓などの道具を玉造神社に保管していた。しかし、津波で流出。神社も被害を受けたために、現在の場所に建て直された。
その再建された玉造神社を取材するために、この場所に来た。
神社に着いてすぐ目についたのは、慰霊碑だった。中央に観音菩薩像があり、その両脇にある石版には、およそ300人の方の名前と年齢がびっしりと刻み込まれていた。ここ大曲浜に住んでいて、亡くなった方達の名前だった。
伊藤さんは、到着するとまず慰霊碑に向かい、持ってきた線香に火をつけてお供えすると、両手を合わせ、亡くなった方々へ祈りを捧げた。
私も続けて、線香に火をつけ、両手を合わせる。私が顔をあげて、石版を見ていると、
「この方は、保存会メンバーの親父さん、お袋さん、甥っ子、姪っ子・・・。」
と石版に刻まれた名前を指し示しながら、静かにゆっくりと話始めた。
「この人は、うちの隣の家の方でした。うちのお袋がちょうど遊びに行っていてね。お袋と一緒に(津波に)流された・・・」押し殺したように言う。続けて、
「うちのおやじの兄貴、姪っ子、本家・・・」
と石に書かれた名前を見ながら話をする。
石版を見ると、高齢者の方が多いが、中には、4、7、8、14、20才・・・という数字も刻まれている。
「ここに名前が書かれている三分の一はうちのお客さんでした。従業員3名も石版に名前が刻まれています。」
と言った後に続けて、
「ここに書かれているのは大曲浜に住んでいた人です。従業員の大半は、山の方に住んでいましてね。わざわざ職場まで来ていて、亡くなってね。職場が、たまたま大曲浜にあったがためにね・・・。」
言葉の後に沈黙が流れた。
長い沈黙の後、墓地全体を見渡し、
「ここは今、綺麗になっているけど、震災後は、全て墓石が倒れていてね、車から船から全部上がっていてね、見るのも無残でしたよ。」
と言った。そして、一本の電柱を示して、
「(津波が来た時)うちの従業員二人があの電柱に上っていてね。耐え忍んでいたんだんだろうけど、苦しくなって落ちてしまって・・・。ほんと、このお墓の後ろだったんですよ。ただ、(遺体が)見つかったのが早かったから綺麗でした。でも、1か月、2か月、3ヶ月経ち、遺体安置所に行った時の光景、ほんと全身真っ黒でした。遺体の損傷も激しくて・・・。あの光景を見たらほんとね・・・、気の毒で気の毒で・・・。」
神社に着いてからの伊藤さんは、言葉の抑揚を抑えながら話していた。単語と単語の間には一瞬、間が入り、途切れ途切れの口調になっていた。普段は力強く、はっきりと話す伊藤さんのそのような話方が、私には、叫び声のように聞こえてしまう。
伊藤さんの介護施設で、事務員として働いていた義理の妹さんも建物ごと津波で流されて、しばらく経った後に、遺体安置所での再会となったと話していた。その時は、身に着けていたネックレスなどで分かったということだった。
その後も、伊藤さんは辛い感情を抑え込むように、最後に見つかった従業員の方の話、何百人もの方の遺体が流れついた場所のことなど、震災当時の話をして下さった。そして、話の最後に
「いろんなものを見てきて、生きたくても生きることができなかった人のためにも
俺らがやらなければいけない。
そういうものを俺らはしょってるんですよね。だからこそ一生懸命にやるべきなんだろうなって。
俺もあと10分遅ければ、ここにはいなかったんだから。この人たちのためにも、しっかり生きねばならないんだなってね。代役ですよ・・・」
と言った後、伊藤さんは私を神社の方へと誘った。
神社の敷地には、小さな桜の木が植えられていた。いつかの日か、きっとこの桜も花を咲かすことだろう。
生きている私たちは、花を見ることができなくなった方たちの分も花咲く桜の姿を、一生懸命見続けていかなければいけないのかもしれない。
玉造神社
Text & Photo:sKenji