息子へ。被災地からの手紙(2013年7月16日)

2013年7月16日、晴れ。(宮城県仙台市→七ヶ浜町→東松島市)
◎「驚くべき一日」インクレディブル!

2013年夏の宮戸島月浜(7月16日)

あったこと、感じたことのみ記す。

本当は昨日会ったロシナンテスの人たちと一杯やりたいと、熱望に似た思いを募らせつつ、仙台に宿をとった次の朝は早かった。
ホテルでの朝食バイキングの後、七ヶ浜へ向かう。
七ヶ浜から奥松島の東名(とうな)へ走る。
東名では牡蠣の種付けのためのホタテの殻を満載した船(船外機くらいの)を見る。もうすぐ種付けが始まるのかと興奮する。
されど、東名の浜では人に会えず。ただただ強い夏の日差しが両頬と首筋を照り焼きにするばかりだった。

東名から奥松島・宮戸島へ入る。その際、心しなければならないのは、島に渡る橋のこと。道路をまっすぐ突っ切っていくと海に落ちる。
差し渡しは小さな川ほどしかないが、立派な海峡。本州と宮戸島を隔てている。しかも片方の岸はなかなかハンサムな切り立った岩場だ。もっとも現在は、津波で落ちた橋の東側に仮設の橋が架けられている。バリケードを突き破るくらいの無鉄砲なヤツでない限り、この海峡の安全は守られている。

宮戸島ではいろいろあった。見たこともないような絶景もそう。縄文村の歴史資料館でお勉強したこともそう。なにせ、縄文人はシカやイノシシはおろか、ハクチョウやウミガメまで食していた。貝塚にしっかり証拠が残っているのだ。教科書では原始人は狩猟採取生活というが、収穫の端境期にはどうなんだろうという長年の疑問も解消した。

さらに宮戸島では、海水浴場の再オープンに向けて、正午の日差しの中で監視タワーを建てているおじさんたちとも出会った。

さらにさらに、ウィークデーには2日しか営業していないゲンちゃんハウスというレストランのオープン日にも当たった。海苔うどんの風味、「ついに出会えたぞ!」って感じ。そしてセンター長の語りだ。けっして語りつくすことのできないこと。軽く冗談を言ってきゅっと引き上げる頬。またいらっしゃい。「はい!」がまたひとつ。

15時には待ち合わせがあった。だから予定していた石巻の中央町あたりの町歩きは延期して、東松島市の大曲浜を経由して、獅子舞保存会の伊藤泰廣さんに会いに行く。
「再会できるのを楽しみにしています」とメールをもらっていた。いきなり握手しに行く!くらいの意気込みで伊藤さんの事務所へ行く。

聞く、話す。話す、聞く。どこまで聞いていいのかとか、聞いちゃいけないことがあるのではないかとか。頭の片隅のどこかで考えていた。伊藤さんはお母さんを津波で失っているのだ。会社の従業員の命もなくしていた。聞く、話す。話す、聞く。

そうこうするうち時計が4時に近づいてくる。「井上さん、市役所の場所、わかる?」
ナビで調べてなんていうまでもなく、「じゃ、俺の一緒に乗っていこう。」
市役所に行くという話は聞いていたが、市役所で会ったのは、東松島の市長だった。

(中略)

夜の予定が押していく。予定は獅子舞保存会の人たちとの懇親会。(中略)ホヤの刺身を小臼歯でぎゅっと噛みしめた時の(中略)ハイボールをツーフィンガーにするタイミングは(中略)同行した同僚と保存会のエースとの腕相撲で同僚が(中略)、代行を呼ぶのが早すぎたかもしれませんね(中略)……。…。

どんなことが起こっているのか、わかる?
何が起きようとしているのか、父さんにも想像がつかない。

想像がつかないほど大きな何かの根っこにあるのは、泣きながら、あるいは奥歯を噛みしめながら絞り出す「ありがとう」という言葉。そして、同じ「ありがとう」との言葉を信じて生きていける強さ。

オレはいま、大きなぐるぐるの中にいるらしい。目が回りそうだ。