東北の友人たちが言うことには。その10「原発の地元の現実」

被災地では、支援慣れという言葉や、自立をサポートすることが大切といった話を耳にすることが増えてきた。被災地から帰ってそんな話しをすると、「震災は終わった。あとは自助努力だけで十分だ」と勘違いする人がたくさんいる。

簡単に理解できることなどない

早朝のいわき市、JR久ノ浜駅の駅前広場で立ち話した佐藤大さんは言った。

「まるで何もなかったようなことになっているじゃないですか、被災地の外側では」

サングラスの向こうから、じっとこちらの目を見据えて、そう言って唇をかんだ。

佐藤さんは双葉町の出身だ。福島第一原発5・6号機がある町だ。佐藤さん自身も震災前までは原発で働いていて、当日は敷地内の事務所棟にいた。震災後、家族とともに西へ逃げ、親族がいる浜松で避難生活を送るようになった。震災の年の7月以降、東北から県外避難している人たちを支援する活動を浜松を拠点に行っている。行政の支援が打ち切られる中、それでも活動を継続してきた。(本当は、そんなに簡単に説明できるような話ではないのだが。)

被災地で生活をなんとか再建しようとしている人たちのこと、立ち入りできない土地に住まいがある人たちのこと、県外で避難生活を送っている人たちのこと、帰りたい人、帰れない人…。佐藤さんは淡々と、でも熱く、そして言葉を発した後、ときどき唇をかみながら話してくれた。

人は、たくさんの個別の話を、それぞれのものとして理解することが苦手なのか、つい話をまとめようとする。一括りにして単純化することで分かったような気になったりする。たとえば「震災はもう過去の出来事」と思いたがるのも同じだ。

その目で見てほしい。もっと見に来てほしい

そんなことを考えながら話をしていたら、佐藤さん、こんなことを勧めてくれた。

「せっかくここまで来ているんだから、ぜひ富岡町まで行ってきたら。」

この春、警戒区域が再編されて「避難指示解除準備区域」になった富岡駅の周辺は、立ち入りできない時間が長かったため、震災と津波で破壊された町が、ほとんどそのままの姿で残されているという。

「ちょうどね、この久ノ浜駅とよく似た小さな駅舎と跨線橋がある駅だったんですよ。その駅がどうなってしまったのか、見てきてほしい。自分の目で見ればきっと分かるから。見なければ分からないことが、たくさんあるから。」

そして佐藤さんは、滞ることのない滑らかな口調で言った。

「まだまだ支援が必要なんだ。」

2013年初夏。3年目に入り、復興へのあゆみや被災地の変化が語られる中、支援がなければ立ち上がることすらできない場所がある。打ちひしがれたまま、2年以上の時間を過ごさざるをえなかった人たちがいる。

躊躇なく語られた「支援」という言葉。

その言葉の意味は富岡町で思い知らされることになる。

そこにあるものの重さ。
自分の想像がとても達しえないでいた深く遠い現実を。

文●井上良太