2014年3月3日、沖縄、茨城北部、宮城県沖と地震が相次ぎました。東北でも沖縄でも地震の恐怖を思い起こす人が多かったそうです。3月3日はいまから81年前、昭和三陸沖地震に襲われた日に当たります。
1933年(昭和8年)3月3日午前2時30分、昭和三陸沖地震発生
昭和八年三月三日と日付が刻まれた「大震嘯記念」の碑。石巻市大谷川の谷川小学校下の海沿いに建てられていた。碑文には次のように記されている。
地震があったら津波の用心
津波が来たらこれより高い所へ
危険区域内に住居をするな
(裏面には朝日新聞社に寄せられた義援金の分配を受けてこの碑を建てたと記されている。同様の碑は三陸地方の各地で見られる)
しかし、この「大震嘯記念」碑をはるかに越えて、東日本大震災の津波は大谷川の集落を呑み込んだ。
昭和の三陸沖地震はプレート境界面ではなく、海側プレートが東西に正断層で割けるように破壊されたアウターライズ地震だと考えられている。広い意味で明治三陸沖地震に関連して発生した地震と見ることができる。地震規模はM8.1。金森博雄によるモーメントマグニチュードの推定ではMw8.4とされる。
マグニチュードは大きいが沿岸部から約200キロと遠く離れた場所で起きた地震で、地震の揺れそのものによる被害はそれほどではなかったが、津波被害は大きく、死者1522名、行方不明者1542名、負傷者1万2000人以上の大きな被害が生じた。津波の最大遡上高は最大遡上高は、岩手県気仙郡綾里村(現・大船渡市三陸町綾里)で、海抜28.7メートルとの記録が残されている。
震源域は離れていたものの、津波第一波の到達は地震の約30分後とされる。真夜中であったことも被害を大きくした要因のひとつだった。とくに岩手県の田老村ではほぼすべての家屋が破壊され、人口の42%にあたる763人が亡くなった。(911人死亡との資料もある)
しかし、漁業が中心の田老では海から離れて生計を立てることは難しく、また平地が限られていたため、巨大な防浪堤を建設し、現地に町を再建することを選んだ。
岩手県南部の気仙郡吉浜村(現・大船渡市三陸町吉浜)では、この津波をきっかけに村全体の高台移転を進める選択を行った。
生活再建のためどのような道を選択するかは、それぞれの地域の条件や人の暮らしによってさまざまな考え方があるだろう。
昭和の三陸地震は明治の三陸地震による海洋プレートの沈み込みに関連して発生したアウターライズ地震と考えられている。明治から昭和まで2つの大地震を隔てる時間は37年。人間の生活感覚ではかなり長い時間だ。それでも地球の時計では37年はあっという間ということなのだろう。
甚大な津波被害を引き起こしたスマトラ島沖地震では、本震から数カ月、数年という間隔でマグニチュード8を超える巨大な余震や関連地震が頻発している。東日本大震災から約3年。昭和三陸地震と同様のメカニズムで発生するアウターライズ地震や、破壊され残った断層面が壊されて発生する巨大余震、さらには南海トラフの地震、プレート内で発生する直下型地震……。
昭和三陸沖地震は、いつ起こっても不思議はない地震の脅威を、現代を生きる我々に警告し続ける地震と言っていいだろう。
歴史の中の3月3日
▼1105年 藤原清衡が中尊寺の建立に着手
兄弟・親族が相争った前九年の役・後三年の役の戦没者を弔うため、藤原清衡が平泉の地に多宝寺(最初院とも呼ばれる)の建立に着手する。寺伝によると平安時代初期の円仁を開祖とするが、実質的には清衡による多宝寺建立が、寺塔四十、禅坊(僧の宿舎)三百と伝えられる壮大な中尊寺創建の第一歩と言われる。
江戸時代の一関の人、高平眞藤が著した「平泉志」に長治2年、堀川天皇から藤原清衡に中尊寺を経営するようにとの勅(みことのり)が下され、2月に工事に入ったとの記載があるが、旧暦2月15日(3月3日)に工事が始まったかどうかは詳らかでない。
▼1174年 源義経が自ら元服(旧暦)
平治の乱で父・源義朝を失い大和へ、また鞍馬寺に逃れていた牛若丸が、上巳(桃の節句)に東山道鏡の宿(滋賀県竜王町)で自ら元服の儀を行ったとされる。鎌倉時代初期に成立した平治物語によると、金売り吉次(かねうりきちじ:東北産の金を京で売る商人とされる伝説的人物)らとともに奥州藤原秀衡のもとへ向かう途中、「その夜鏡の宿に着き、夜更けて後、手づから髪(もとどり)取り上げて、懐(ふところ)より烏帽子取り出し、ひたと打著(うちき)て打出で給えば……(平治物語)」とされる。物語は続けてさらにエピソードを伝えるが、詳しくは下記を。
▼1879年 アメリカ地質調査所設置
世界中の地震活動を監視し、地震規模や震源地についての情報を公表するUSGS(United States Geological Survey)。地震のみならず火山噴火や地磁気、地球物理などを調査研究する機関と活動している。
▼1915年 NASAの前身NACA設立
航空技術の推進を目的に合衆国政府機関として国家航空諮問委員会(NACA)が設立される。NACAは後に改組されアメリカ航空宇宙局(NASA)へ移行するが、初めて音速を超えたX-1、最高速度マッハ6.7・高度10万キロ超のX-15などのエポックは、NACA時代に米空軍等の共同で行われた。
▼1922年 全国水平社創立
被差別部落の地位向上と人間の尊厳の確立を目指し結成される。この日、京都で開かれた創立大会で日本最初の人権宣言と言われる「水平社創立宣言」を採択する。
▼1923年 ニュース雑誌「タイム」創刊
アメリカ初の週刊ニュース雑誌として「タイム』が創刊される。世界初のニュース雑誌ともいわれる。
▼1933年 昭和三陸地震発生
▼1938年 国家総動員法案の衆院委員会審議で佐藤賢了中佐が「黙れ!」発言。(「黙れ」事件)
戦争遂行のため国家のあらゆる人的・物的資源を政府が統制運用できるとする国家総動員法案の審議で、政府説明員として説明に当たった陸軍省軍務課新聞班長佐藤賢了中佐が、長広舌に対する野次に「黙れ!」と発言する。
▼1945年 マニラの日本軍がアメリカ軍に降伏
日本軍戦死者12,000人、米軍戦死者1,020人、そして市民の犠牲者10万人とされるマニラの市街戦の終結を米軍が宣言。
▼1958年 スバル・360が丸の内の富士重工業本社でプレス発表
▼1969年 アメリカの有人宇宙船「アポロ9号」打ち上げ
地球軌道を周回しながら、月着陸船の切り離しとドッキング、船外活動などを行った。月着陸に成功したアポロ11号の打ち上げは約4カ月後。
▼1973年 ワシントン条約調印。
1972年の国連人間環境会議の勧告を受けて、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」がワシントンD.C.で採決される。日本は1980年に締結。
▼2006年 第1回ワールド・ベースボール・クラシック開幕
開幕数週間前からNYの地下鉄にはWBC関連のポスターが大量に掲示されていた。3月20日の決勝戦は日本とキューバで戦われ3対1で日本が優勝した。
▼2009年 ケルン市歴史文書館が原因不明の倒壊
ヨーロッパ最大級の地域公文書館であるケルン市歴史文書館が、隣接するアパートを巻き込み原因不明の倒壊。住民2人が死亡した。保存されていた文書の9割が倒壊した建物に埋まったとされる。
この日が誕生日
◆1439年 足利義視
室町時代の武将。将軍家の家督相続問題の一方の当事者となり応仁の乱を引き起こす。
◆1847年 グラハム・ベル
アメリカで最初に電話の特許を取得したことで知られる発明家で技術者のアレクサンダー・グラハム・ベルがスコットランドに生まれる。電話のほか、光によって音声を伝えるフォトフォン、金属探知機を発明。水中翼船や凧、航空機も研究した。
◆1882年 伊藤晴雨
日本の画家。責め絵、幽霊絵を多く残す。
◆1883年 和田三造
洋画家。黒田清輝に師事。東京美術学校では青木繁、熊谷守一らと同期。画家にとっての社会的・経済的ステイタスと目された第1回文部省美術展覧会(文展)で「南風」が最高賞を受賞。この結果は青木繁をひどく落胆させたと伝えられる。その後も和田は画家として活躍を続けるほか、色彩の標準化にも取り組んだ。大映初の総天然色映画作品「地獄門」では衣裳デザインを担当。この映画でアカデミー賞衣裳デザイン賞を受賞。カンヌでもパルム・ドールを受賞した。
◆1890年 - 坪田譲治、児童文学作家(+ 1982年)
児童文学作家。童話の発表のほか童話集の編纂、松谷みよ子、あまんきみこ、大石真らを育てた。
◆1924年 村山富市
日本の第81代内閣総理大臣(1994年6月30日~1996年1月11日)。1991年9月から社会党委員長。細川首相の辞任を受けて発足した羽田孜内閣で社会党は連立を離脱。羽田内閣が倒れた後、自民党、新党さきがけと組み自社さ連立政権内閣が発足。総理大臣に就任した。
◆1924年 いぬいとみこ
児童文学作家。「ながいながいペンギンの話」「白クマそらをとぶ」「北極のムーシカミーシカ」ほか。
◆1928年 小島功
漫画家。代表作に「仙人部落」「ヒゲとボイン」などがある。日本酒黄桜のカッパキャラを清水崑から引き継いだ。
◆1951年 竹中平蔵
日本の経済学者、元・ 内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当・郵政民営化担当・金融担当)。
◆1952年 大森一樹
映画監督。「暗くなるまで待てない!」「ヒポクラテスたち」村上春樹作品の映画「風の歌を聴け」「ゴジラvsビオランテ」など。
◆1959年 宮台真司
社会学者。著書に「制服少女たちの選択」「終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル」「〈世界〉はそもそもデタラメである」など。
この日亡くなった人たち
・1111年 ボエモン1世
第1回十字軍の指導者の1人。アンティオキア攻囲戦、ドリュラエウムの戦いなどで手腕を発揮。アンティオキア公となるが東ローマ帝国に敗れる。
・1703年 ロバート・フック
イギリスの科学研究者。ぜんまいを使った時計の発明、毛細管現象の観察、弾性の法則の発見、動脈血・静脈血の違いの発見、顕微鏡での観察、月のクレーターなど天体観測、建築設計など幅広い分野で実験と観察に基づく業績を残した。細胞(cell)の名付け親としても有名。
・1854年 ハリエット・スミスソン
アイルランド出身の女優。フランスの作曲家エクトル・ベルリオーズは彼女に恋するも失恋。愛情と憎悪の感情を「幻想交響曲」で表現した。その後ベルリオーズの演奏会で「幻想交響曲」を聞いたハリエットは、自身が曲に描かれたヒロインであることに気づき、このことがきっかけでベルリオーズと交際、やがて結婚、一児をもうけるがやがて別居。ベルリオーズとの結婚から約10年でハリエットは他界する。
・1914年 下岡蓮杖
幕末から明治の写真家、画家。伊豆下田に生まれ画業を志して上京。銀板写真に驚きイギリス通事ヒュースケン、アメリカ人写真家ウンシンに写真術を学ぶ。横浜に写真館を開設し、幕末・江戸初期の多くの人々を写真に残した。長崎の上野彦馬とともに日本の写真発展の礎となった。