「がんばろう!石巻」に込められた思い

石巻の知人のFacebookにこんな記事が書き込まれていました。

「震災後 ヤレルことは全てやろうとガムシャラに頑張りましたが、これからは、ヤルベキことをしっかりやろうと思います」

彼は津波でたいへんな被害を受けた石巻市門脇(かどのわき)地区に「がんばろう!石巻」と記された大きな看板を設置した人、黒澤健一さんです。彼がこれまでガムシャラに頑張ってきたことについて、そして、ヤルベキことが何なのか聞きに石巻を訪ねました。

黒澤さんが言う「ヤレルことは全て」。その意味を理解していただくためには、3月11日に起きたことをお伝えしなければなりません。

取材の冒頭、「ほとんど壊滅状態になった門脇に看板を立てた理由を教えてください」と切り出すと、黒澤さんはこう言いました。

「ほとんど壊滅状態ではなく、壊滅です」

黒澤さんが言うとおり、門脇地区には山のふもとのごく一部を除いて住宅は残っていません。震災から二年となる現在も、がれきが撤去されただけの土地が海まで広がっているばかり。黒澤さんの自宅兼店舗も流されました。自宅にいた奥さんは津波に襲われた瞬間、「だめだ」と思って目をつぶり、次に目を開いた時には屋根も壁もなくなった2階の床の上に取り残され、まるで海に立っているような状態だったそうです。

ほとんど同じ時刻、黒澤さんは店舗兼自宅から約3キロ離れた運送会社の敷地にある松の木の上にいました。自宅に急行する途中で津波に襲われ、徒歩で逃げていた人を車に乗せて走って、それでも間に合わず、近くにあった松の木に上って津波当日の夜を明かしたのだそうです。地震直後の電話で「逃げろ!」と奥さんに伝えなかったことを悔やみながら。

3月12日の朝を迎えた黒澤さんは、水没した町を徒歩で自宅へ向かいました。津波の後、町を襲った大火災が燃え続けていたので、冷たい水の中を歩いているのに火災に面した側をずっと炙られていたような感じだったそうです。奥さんの安否を気遣いながら自宅へ向かっている時、途中に立ち寄った石巻文化センターでは、「大丈夫。奥さんは絶対生きているからがんばって」言われたそうです。その時のことは、2013年3月9日の3・9レターキャンペーンのメッセージに書き込まれています。

がんばる決意

奥さんは無事でした。津波で押し寄せてきた建物が、1階が水没した自宅と高台との間をつないだ時に、消防によって救助されていたのです。奇跡的でした。

それでも、家も店も商売道具も流されました。高台の避難場所で生き延びることができた町の人々も、絶望して、落ち込んで、うつむいていました。黒澤さんもそんな中の一人でした。

「震災から数日後、落ち込んでいた仲間としゃべっていて、その時は自分も一緒に落ち込んでいたんですけど、『いや違うべ、がんばっぺ』ってその人に言ってしまったんですよ。

その時、待てよと思ったんです。俺もさっき同じように落ち込んでたのに、がんぱっぺって言ってんな。ああ、これは頑張んなきゃいけないってことなんだなって思って、そん時にがんばる決意をしたんです」

がんばろう。でも何をがんばる? 自分にできることはなんだろう? そんな自問が頭をよぎった時、黒澤さんは心に決めたそうです。

「考えたってしょうがない。全部やろう。何ができるかなんて考えていたら、何もできなくなってしまうって思ったんです。だって、津波に流されて何もなくなって、ただただ絶望していたんですから」

津波には負けたくない

その時、黒澤さんが思った「全部」のうちのひとつが「がんばろう!石巻」の看板でした。

「たまたま自分の店は日和山からよく見える場所にありました。あの場所にみんなを励ますような看板をつくれないかな、と単純に考えたんです。津波に負けたくないという自分自身の気持ちもありました」

「バカなこと考えいてるんだけど、ちょっと手伝ってもらえないか」と仲間に声をかけ、快諾してもらい、自宅近くに流されてきたベニヤ板や角材を材料に看板本体を組み立て、震災から1カ月目の4月11日、「がんばろう!石巻」の看板が完成しました。

黒澤さんたちの看板制作は、マスコミにも大きく取り上げられました。震災から1カ月、まだまだ暗いニュースが多かった中で、取材したマスコミの人たちは「こんなニュースを待っていたんです」と話していたそうです。

「ヤレルこと全て」は看板だけではありませんでした。避難所に水を運ぶ作業もしました。震災の1週間目頃から電話が通じるようになると、お客さんから「ここ直してくれないか」「あそこが壊れたままだから」と頼まれるようになりました。道具もない中、お客さんの家にあった100円ショップで売っているような道具まで使ってお客さんの要望に応えました。

資材関係の仕入れ先が営業再開した後は、「悪いんだけど、有り金だけで何とか材料を売ってほしい」と頭を下げました。ダメもとで頼んだものが、「いいですよ」と材料を入れてくれました。店舗再開のための土地を世話してくれた人、十分な担保がないのに資金を工面してくれた金融機関もありました。

震災の後、ガムシャラに頑張ってきた人たちが黒澤さんのまわりにはたくさんいたのです。「がんばろう!石巻」の看板は、そんな石巻人の決意の象徴なのかもしれません。

変化の中で変わらぬ思い

看板そのものも、前に向かって変化を続けてきました。看板完成直後にはアスファルトに「復興するぞ!」の文字をペイントしました。鯉のぼりを立てました。七夕を行いました。木製の看板がいつか朽ちてしまった後も看板に込めた思いを伝え続けていくためのランタンも設置しました。看板を訪れる人に津波を実感してもらうために津波高を示すポールを設置しました。津波で流されてきて自力で育って花を咲かせた「ど根性ひまわり」を伝えていく活動は3年目に入っています。

人々を励ます目的での看板でしたが、慰霊の場として看板にやってくる人も少なくありません。看板に花を手向ける人たちの気持ちを受け止めるために仮設の献花台を作りました。七夕で多くのメッセージが短冊に書き込まれたのを目にして、思いを受け止めるための記帳台も作りました。献花台は震災2年目を迎える前に新たな物に作りかえました。

未来に向かって変化していく石巻の人たちと同じように、看板そのものも変化し続けているのです。

2月10日、黒澤さんはFacebookに次のように書き込みました。

「ヤレルことは、全てやろうから、ヤルベキコトをしっかりやろうと思い行動してみたら、課題、問題がくっきり見えてきました。さて、どうこの障害を排除するか、たぶんひとつひとつ丁寧に片づけていくのが早いのかな、がんばろう。」

震災直後は、やれることが限られていました。「だいたい仕事が復活して、こうやって商売できるなんて思ってなかったんですよ。もうこうなったら、有り金を全部使ってヤレルことやって、ダメならダメでいいじゃないかって気持ちでやっていたんですよ。最初はね」。

でもいまはヤレルことが増えています。すべてをやっていたら、それこそ黒澤さんが倒れてしまうくらいに。それくらい、「復興する」ためにはやらなければならないことが山積しているのです。だから、ヤルベキコトを見極めて、それをひとつひとつ丁寧に片づけていくしかないのです。

ヤルベキコトをしっかりやろうと頑張ったことはありますか?

「がんばろう!石巻」は、立ち上がった石巻人が石巻の人々のために作った看板です。しかし、看板が発するメッセージは日本中の人々の心に刺さるもの。あの看板に、あの言葉にどんな思いが込められていたのか。そして看板をつくった人がどんな覚悟で復興を目指しているのか。あの日から2年を迎えるいま、私たちはもう一度、いや何度でも思い返しさなければならないことだと思います。

●TEXT+PHOTO:井上良太