震災の日に思う「できること」

東日本大震災から今日で丸2年が経ちました。

 私事ですが、当時は営業職として九州で仕事をしており、震災当日も佐賀の営業先にて販売応援を行っていました。14時46分、今なお想像を絶する地震が東北地方を襲ったときでさえ、黙々と仕事をこなしていたと思います。日本中がまさに大混乱という状況だったと聞いていますが、僕はというと、その日の夜になって初めて震災の事実を知るというほどの情報の遅さでした。東北地方に友人もおらず、また、九州地方での生活に目立った変化もなかったことから、どこか別世界のような出来事にしか見えなかった気がします。

 その後は復興支援の機運が高まり、当時勤めていた会社においても寄付金が募られました。「会社がやっていることだから従うか」と、僕はどこに使われているかもわからない寄付金をとりあえず寄付し、「できることがあるとしたら、こんなものかな」という気持ちだったと思います。

 テレビのニュースやYoutubeを通して被災地を見れば見るほど、その光景がピンとこないものになっていました。

 かくいう僕も、今から18年前の阪神淡路大震災ではいわゆる“被災者”でした。当時は阪神地区に住む小学生。まだぐっすり寝ていたころ、あまりに強い揺れに飛び起きたことは覚えています。それでも我が家は新築だったこともあって無事でした。しかし、より震源に近い神戸方面に住んでいた曾祖母を我が家で迎えて一緒に暮らしたりと、震災の影響を身近に感じることも多々ありました。

 あの当時を思い出してみると、水道の出が極端に悪くなったこと、頻繁に停電があったこと、小学校には1週間や1か月など、何やら事情のありげな期間限定の転校生がよく訪れていたことなど、いくつか印象的なことがあります。

 しかし、それすらもいつの間にか忘れてしまい、しばらく記憶の片隅に眠っていました。

 それから1年経ち、転職先である現在の仕事を通じて、東北地方を取材し、記事を書く機会を頂きました。

 そこには、今までテレビや動画でしか見たことの無い光景、そんな光景が、やはり当たり前のように広がっていました。恥ずかしながら、現地へ行ったことで、初めて福島、宮城、岩手の市町村の位置関係を把握しました。そこで初めて海沿い全てが“被災地”であったこと、そしてその範囲は阪神大震災で知るそれよりも広いことを体感した次第です。

 しかし、津波など二次災害の恐ろしさ、途方もない避難生活、復興のスピードなどは、いくら想像をめぐらせても今ひとつ現実味がありません。そんなことを考えているうちに、仕事で訪れたのが福島県いわき市久之浜町の仮設商店街「浜風商店街」。同じく、津波によって壊滅的な被害を受け、高台の小学校の敷地に移転した仮設商店街です。

 そこで伺ったのはもっと生々しい“被災地のお話”でした。「お店を全焼させてしまった食堂の店主」、「家族がバラバラになって“最悪”を覚悟したお母さん」、「風評被害によって生活が困窮している農家」などなど。どれも、数行のニュース記事や数秒の映像では伝わってこない“被災地のお話”でした。その人にしか伝えられない“被災地のお話”でした。

 僕はこのときはじめて、それまで無関心だった自分に戸惑いました。僕がやってきたことと言えば、内容すら知らない少額の寄付のみ。そんな生々しいお話を聴いてようやく心を打たれたものの、やはり何をすれば良いかわからなかったのです。

 ところが、「浜風商店街」を離れる時、とあるお店の奥さんより「話を聴いてくれてありがとう」「お菓子を買ってくれてありがとう」と感謝されました。普通に取材をしていたつもりでしたが、それがいつしか雑談のようになり、あげく感謝されてしまったのです。

 その時は「感謝されるようなことなんて何も・・・」と、思っていましたが、行く先々でやはり喜ばれ、おもてなしをいただき、最後は「ありがとう」なんて言われました。気仙沼でお話を伺った商店街の奥さんの言葉が印象的です。

 「話を聴いてもらうだけでも“有り難い”からありがとう。かな。」

 現地で話を聴くというそれだけが“有り難い”。無関心だった僕が今更ながらにできた復興支援だった気がしました。

 復興支援の形に良いも悪いも無いと思います。ただ、僕のように、どうしても関心の持てなかった人、もしくは自分がどうすれば良いか分からない人はまだまだいる気がします。もし、そんな人が、被災地や現地の方々に接する機会があれば、どうか会話の時間を持ってほしいなと思うのです。その瞬間は、まさにお互いにとって“有り難い”ことかも知れません。

 だからこそ、僕は、「多くの人が被災地に訪れ、会話の時間を持つ」ためのお手伝いをしたいと願うようになりました。それが、喜ばれる手段のひとつであり、そこに「ありがとう」という言葉がたくさんある気がするのです。そして、そこにこそ、僕が微力ながらに復興支援へ繋がる取り組みができると感じています。