2012年10月19日
「うちのお父さん70歳なんだ。それでね、あと3年すればお店を出してから50年になるの。だから、それまでは頑張ろうって、ふたりで言ってるのよ」
いわき市久之浜に、東日本大震災後、日本初の仮設商店街としてオープンした浜風商店街。その中ほどに店を構える電器屋さん「プラネットさとう」は、商店街の、そして久之浜の情報集約基地といえるお店。ご主人の佐藤勝郎さんは品物の配達や電化製品の調整などのサービスのため、いつも軽トラックで町中を走り回っている。日中留守がちなご主人に代わって、奥さんのテルイさんがお店を切り盛りする。
お店を切り盛り、というとちょっと実際のニュアンスが伝わらないかもしれない。お店というより、商店街全体のお母さん役のひとり、といった感じなのだ。
たとえば初めて浜風商店街を訪れたとしよう。南棟と北棟の間の通路を歩いていると、テルイさんがすっと現れて一言。
「どこから来たの? コーヒー飲んでいかない?」
と誘ってくれる。もしも遠慮していると、「じゃあご飯食べた後でいいから、いつでも来てね」。
商店街の情報館で、かつての久之浜の様子についてスタッフから話を聞いていると、
「私の家はこの辺だったの。津波もすごかったけど、火災も大変だったのよ」
と詳しく説明をしてくれる。その間合いが絶妙なのだ。初対面だということを感じさせず、相手を緊張させることなく、「スガハラ理容店のパパに話を聞くといいわよ」とか「やっと干物が作れるようになったけど、地の魚を使えないから石井魚店さんも辛いのよ」などなど、外から訪ねてきた我々をナビゲートしてくれるのだ。
そんな感じで自分も気が付いたらプラネットさとうさんの店内の丸テーブルに座って、入れ代わり立ち代わりやってくる地元の方々と、コーヒーにとどまらずお菓子や漬物、もつ焼き、イチジクなど、さまざまなものをお呼ばれしながら、夕日が暮れてあたりが暗くなるまで話し込んでしまったのだった。
電器屋さんは町に欠かせない情報ステーション
「前はね、久之浜の旧街道沿いにお店があってね、そこにはポプラの木があって、海の匂いがする風が流れていて、いいところだったんだ。うちは電器屋さんだけど、コロッケつくったよとか、パン焼いたから食べていってとか、みんなが集まってくれる場所だったのね」
と話してくれている間にも、次々とお店にお客さんがやってくる。といっても商品を買うのではなく、お店の丸テーブルに座って、おしゃべりするのがおもな目的。そうやってお客さんが訪ねてくることが当たり前の幸せといった感じで、テルイさんは目を細める。
いわき市の南、泉から1時間近くかけてやってきたという方がいる。震災後、子どもの勤め先を頼って岐阜に行き、その後、転勤で茨城に転居したのを機にいわきに戻ってきたという人がいる。みなさんが異口同音に語るのは、
「仮設から久之浜まで通うのが大変」ということ。
福島第一原発の30km圏のすぐ外側ということで、久之浜の住民が入居している仮設住宅の多くは、広いいわき市の中部以南にある。
「でもね、仮設にいてもあんまり情報が入ってこなの。ここに来なくちゃいろいろなことが分からないのよね」
分からない情報の中には、どこの土地が売りに出されたとか、どこで造成工事が始まりそうだといった住まいの再建に直結するものがある。また、東京電力との交渉についての情報もある。放射能についての「本当のところ」の情報もある。
「ちゃんと説明できる人に来てほしいものよね。納得できないって言ってるのに、もう時間ですからなんて終了しちゃうんだよ」
これは東京電力の説明会に出た人からの報告。
「ウリボウの肉を計ったら1kgあたり283ベクレルだった。大人のイノシシは1,000を超えるから、野生の動物には山で食べるものからの蓄積があるみたいだ。セシウムが高くなりやすいのは切干大根みたいに干したもの。それからカキとかの木になるものの皮の部分。あとキノコ類はどうしても高いね」
食品の放射線量について詳しく解説してくれたのは、「放射能に負けないコメ作り」でも紹介している佐藤三栄さんだ。
スーパーで「これは大丈夫です」と言われてもにわかに信じられないくらい、放射能については疑心暗鬼が蔓延しているが、三栄さんのように高いものも低いものも、考えられる原因や、今後の取り組みまで含めて話してもらえると、不思議なほど安心することができた。生産者と消費者の間の信頼関係は、顔が見える関係から生まれるものなのかもしれない。
口コミは強い。最終的に安心を確認するためのコミュニケーションとして、顔の見える関係は不可欠だ。
「そう、情報なの。だからこのお店は本当に貴重なの。それなのに、6点セットを配ったのが、どうしてここみたいな町の電器屋さんじゃなかったのかしらね」
お菓子を差し入れしてくれた女性が、つくづくといった感じでそう言い残して帰っていった後、テルイさんが将来のことを話してくれた。
「あと3年たって50周年を迎えることができたら、店は閉めようと思うのよ。小さな家でもいいから、昔の店の近くに建てて、ついの住処にしたいなあって思っているんだ。でもね、玄関には電球とか電池とかは並べておいて、顔なじみの人に頼まれれば、電球を取り替えたり、テレビのチャンネルの調整をしたり。そんなふうにやっていきたいなあと考えているんです」
お店に戻ってきたかと思ったご主人が、また配達に出かけていく。「急な来客があるからファンヒーターがいますぐにいるっていうんだ」。
「マグロと一緒で商人はいつも動いてないとね」と、奥さんが笑顔でご主人を送り出す。
お店にお邪魔していた時間は1時間とちょっと。その間、10人を優に超える人たちがプラネットさとうさんの丸テーブルで、おしゃべりしたり、情報交換したりしていった。
都会では少なくなってしまった地域密着の電器店。情報ステーションとしても不可欠な存在である町の電器屋さんは、被災地久之浜でしっかり生きている。
PHOTO:奥野真人 TEXT:井上良太 (ともに株式会社ジェーピーツーワン)