人生あと50年。こんなことでは終われないでしょ!(2012年1月20日)

北いわき再生発展プロジェクトチーム代表・高木優美(まさはる)さんの話を伺っていると、町が大きな被害を受けたにも関わらず、前向きで、聞いている自分の胸の中がどんどん明るくなっていくのを感じます。こういう人柄だからこそ、逆境にめげることなくコミュニティの復興を目指せるのだろうと納得していました。けれども、久之浜がいまも苦境に立たされていることに変わりありません。高木さん自身、ひとりの被災者として苦しい状況の中で活動を続けているのです。

高木優美(まさはる)さん(北いわき再生発展プロジェクトチーム代表)

3月12日の朝、心に思ったこと

    再生発展プロジェクトチームの代表なんてやっていますが、私自身はひとりの被災者です。

津波で自宅はぼこぼこに壊れてしまいました。何とか片付けて住み続けていますが、うちより被害が軽微だった住宅がたくさん解体されているくらいです。震災直後の3月15日には勤務先を解雇されました。原発被害の進展によっては人を雇っていられない状況になると考えたのでしょう。だから現在は無職。失業保険ももうすぐ切れてしまいます。

   神社は残りましたが、町がこんな有り様ですから神社としての収入もありません。どうやって生活して行くか、まったく先が見えない状況なのです。

   ほんとうなら2011年の7月2日に結婚して、安定した未来が約束されていたはずなんです。でもいまは結婚だってどうなる分かりません。私は久之浜でずっと暮らしていくつもりですが、福島というだけで危険な場所という根強いイメージがあるのも知っています。気持ちだけではどうにもならないものがあるということも理解しているつもりです。

   学生時代の友だちには、なんでそこまでやるの?と言われるだろうと思うんです。でもね、自分の中で、やらなきゃって気持ちがついたんです。

   3月11日の夜更け、私は父と2人で神社の荷物の運び出しをしていました。火災は7軒くらい先まで迫っていて、火の粉が上からではなく横殴りに舞っていました。ときどきプロパンガスのボンベが爆発する音も聞こえました。一晩で20本くらいは爆発していましたね。外でタバコをすいながら火事の様子を見ていると、ガスボンベが空中に跳び上がって爆発して、町が明るく照らされるんです。

    その時に目にした光景は、何とも言えばいいのかな。どう表現したらいいのかわかりません。ただ、人の生き死にについてずっと考えていました。

   荷物の運び出しは夜通しかかり、やがて3月12日の朝になりました。地震と津波と火災でやられた町が、目の前に広がっていきます。

   3月11日から12日になっていく中で思いました。起きてしまったことは現実なのだから、ここで起きたことをどう乗り越えて、未来につないで行くかが大切なんだろうな、と。

   久之浜では63人の方が亡くなりました。100人に1人が亡くなったということです。生きた人は、何がなんでも生きて、前を向いて行動しなければなりません。それが亡くなった方に報いるために一番大切なことなのです。

   自分は20代だから、あと50年は生きるじゃないですか。50年、どうやって生きますか?

   自分が死ぬ時に「あの時やってけば」と負い目に感じるような行動はとれないでしょう。

   自分が住んでいくところだから、町の行く末を自分の目で見届けたい。

  

子供たちもお年寄りも誇りに思える町に

    町の行く末を考える上で大切なのは子供たちのことです。いまの子供たちってけっこうシビアで、放射能のこともよく考えています。小学校3年生くらいの子が「放射能も恐いけど、お母さんの方が神経質になっててヘンな感じ」なんて言うんです。状況を冷静に見ているんですね。

   私は子供たちが「福島県いわき市久之浜の出身」と胸を張って言える町にしたいと考えています。

   植樹や太陽光発電パネルの設置プロジェクトも、「この木は、わたしが植えたんだよ」とか「ぼくが作ったんだ」と言えるものが町にあってほしい、という思いからスタートしました。私たちにできることは、人に対して働きかけていくこと。できる限りのことを未来の久之浜のために実行していきたいと思っています。

   原発の被害については、たしかに子供たちも可哀そうですが、お年寄りの方だって同じです。

   80歳、90歳の人たちは、皆さんが戦災から立ち直ってきた人たちです。戦争に敗れ、すべてが破壊された中から、もっといい町にしようと郷土を復興し、これまで頑張ってきたのにこの震災で逆戻り。この世代の方々のことを思うと胸が痛みます。

   でも、どんなに被害が大きくても、そこから何かを学んでいくことはできるはずです。年長の人たちが戦災から復興したように、今度は私たち若い世代が、震災をバネにもっといい町にしようと頑張っていれば、おじいちゃん、おばあちゃんたちも目を細めてくれるかもしれないじゃないですか。若い衆も頑張ってるなあと穏やかな気持ちになってもらいたいんです。

   お年寄りの中にはもう放射能なんか関係ないからと、自家菜園でつくった露地物の野菜を平気で食べている人も少なくありません。でもお孫さんが遊びに来た時に母親が言うんですね。「ジジが食べてるものをもらっちゃダメだよ」。それがさびしいと話してくれた方がいました。

   田舎の「いい形」ってあったと思うんです。おじいちゃんと孫がふれ合ったり、世代を越えて価値観を伝えたり。それが原発事故で台無しになってしまった。こんなバカな話はないでしょう。田舎のいい形を何とかして取り戻したい。このことは切実に思っています。

   自分が神官だから言う訳ではありませんが、神社でお参りするのは「神頼み」ではないんです。神様の前で「自分はこうしたい」と決意を表明するのが本来の姿です。人間としてできる限り力を尽くす。しかし人間の力だけではどうしようもないことがあった時には、そっと背中を押して前に進んでいける勇気を授けてほしいとお願いする。

   久之浜の復興に向けての活動でも、自分はそんな思いで取り組んでいます。

目指しているのは「ふつうの生活」ができる久之浜

    原発事故が起きて以降、被災した町の復旧作業やイベントをボランティアの人たちと一緒にやりながら、ずっと考えてきたことがあります。それは「ふつうの生活」に戻りたいということです。

   ふつうの生活って何なんでしょう。

朝起きて、働いて、ご飯を食べて、家族との会話も今日はどうだったとか、こんなことがあったとか当り前の話ができるということ。農家の人なら田んぼや畑で仕事をし、漁師さんなら海に出る。自分のような神職であれば、儀礼や町のお祭りをつかさどる。

   そういえば、昨年の秋に東京からお神輿を譲っていただいて神輿渡御を取り行ったのですが、その時久しぶりに神官の装束を身に付けたんです。やっぱり自分の仕事はこれだなと改めて思いました。高木優美というと頭にタオルを巻いてTシャツに作業ズボンというのがトレードマークと思ってる人も多かったようで、「本当に神主さんだったんだ!」とびっくりされてしまいましたが(笑)。

   復興という言葉に何をイメージするかは人それぞれです。町からガレキがなくなること?除染が完了すること?福島=危険というイメージが払拭されること?いろいろな考え方がありますが、この町をもっと良くしたいという思いは同じだと思います。私にとっては、久之浜に暮らす人たちがふつうの生活を取り戻すことこそが復興です。久之浜のふつうとは、きっと「昔ながらの人間臭い、よい田舎」を取り戻すことだと思います。

   いまはまだ、テレビをつければイヤでも原発のことが目に入ります。シーベルトとかグレイとか賠償金請求書とか、およそふつうではありえない言葉が家族の話の中にまで入ってきます。

    でも、そんな福島で、しかも原発から30キロの久之浜に「ふつうに生活している人たちがいる」ということになれば、きっと原発の負のイメージに対する「カベ」になれると思うんです。自分たちがやっていることを見ていてくれる人たちがいて、それを力に1%でも2%でも復興が進んでいってほしいんです。

   久之浜の人たちは多くのボランティアの人たちにお世話になりました。地元の人たちと外部の人たちがお互いに刺激し合ったり、活動を通じて友人になれたことは大きな財産です。でも、ボランティアとして来てもらっている限りは、やっぱりふつうではないんです。

   外からの支援はいつまでも続くものではありません。いつかは地元が自立しなければならない時がやってきます。ボランティアの人たちとのふれ合いの中で、地元が力を付けていけば、5年かかるものが3年に短縮できるかもしれません。また、外から来てもらった人達が、自分の町に戻った時に久之浜で目にしたことを周囲に伝えてくれることで、その人の町で災害に対する考え方が変わっていく効果もあるでしょう。

   ボランティアの常連の人たちとは、よくこんな話をするんですよ。

   「いつか近いうちに、ボランティアとかじゃなくて、久之浜でバーベキュー大会でもやりたいね」

   震災と原発事故があったからこそ出会えた人たちが、久之浜というふつうの町で、ふつうに関わっていける日を早く迎えたいと願っています。

高木優美(まさはる)さん(北いわき再生発展プロジェクトチーム代表)

   福島県いわき市久之浜町の諏訪神社の禰宜であり、いわき市の神社の付属幼稚園に勤務していた高木優美さんの人生は、2011年3月11日を境に一変してしまいます。神職とは言えごく普通の青年だった彼が、原発被害の最前線の町の復旧の旗をふる人物になったのはなぜか。インタビューで追いかけます。