漁業復活への道 石巻市大須 「家は流されたが船は残った」

[プロローグ]
昼下がりの漁港。地震で地盤沈下した岸壁に集うのはウミネコばかり。そこに軽トラックが1台やってくる。車から降りてきたのは、ウェーダー(胴付長靴)を着た漁師の小松利久さん。震災後の海のこと、漁のこと、これからのことなど話してくれた。最初はぽつりぽつりと、最後の方では大きな笑顔もまじえて。宮城県石巻市大須。雄勝の半島の先端近くの浜の復興は遠い。それでも小松さんは笑って言ってのける。「やるしかないっぺちゃ」。 (2012年11月18日)

あの日、船から目撃した陸の光景

あんまり激しい地震だったからこれは津波が来るなと思った。家族を高台に避難させて、自分は船を沖に出そうと軽トラックで港に戻ったんだ。いったん岸壁まで下りてきたんだが、ここに置いていたら車が危ないと思って、漁港の崖の上の方にトラックを走らせて、急いで港に戻って。船を出した時には、もう潮が引き始めていた。ぎりぎりだったな。船を出せなかったら間違いなくやられていただろうからな。消波ブロックを積んだところの先まで行って振り返ったら、漁港の海の底がもう見えるくらいまで潮が引いていたよ。

ここの海は水深があるから、そんなに遠くまで船を出さなくてもよかったんだ。津波の第一波を乗り越えて、陸の方を振り返ったら、漁港の建物が津波でやられるのが見えたよ。それだけじゃなくてな、自分の家が津波に呑み込まれていくのも、この目ではっきり見ていたよ。第一波で家の屋根の下まで波が来て、次の第二波で家が見えなくなった。家のそばの納屋も海に呑まれた。

もうこの海で仕事するとは思ってなかった

津波はなかなか収まらなかった。押し波が陸を襲った後は引き波が海の方に寄せてくる。消波ブロックを乗り越える引き波が、まるで滝みたいだったな。流れに乗って海の上にはいろんなものが流れていて危険だったよ。その晩は一緒に沖出しした仲間の船と連絡とりながら海の上で過ごした。漁港に戻ったのは次の日の昼頃かな。それだけ時間が経っていても、港の中は水がぐるぐる渦を巻いていた。海があんな風になったのは初めて見たよ。

もうこの海で仕事するなんてことは考えもなかったな。思いもしなかったよ。自分は若い頃に北海道で船乗りをしてたこともあったんだが、また他所で働くことになるんだろうと思っていた。漠然とな。

あぁ、自分には船があるんだな・・・

それでも不思議なものなんだ。震災後、国の復興事業で海中のがれき撤去を3カ月くらいやっていたんだが、日にちがたつうちに「家は流されたが船はあるんだな」と思うようになった。船があるなら漁に出てみるかと。やっぱ漁師なんだな。

漁具を入れていた納屋もやられたんだが、屋根裏にしまっていた網がかろうじて残っていたんだ。壊れたところを自分で修繕して、ためしに漁に出てみたのは震災後の5月のこと。

そしたら獲れたんだ、ヒラメが。例年よりずっとよく獲れたよな。でもその頃はまだ市場が再開していなかった。石巻も女川もやられたままだったから、いまは雄勝でお店を出している光洋さんのトラックで仙台まで運んでもらったんだよ。

自分が獲った魚がいい値で売れると漁師はうれしいものなんだ。獲れるのもうれしいが、いい値がつくのも漁師冥利に尽きるんだな。石巻の市場が再開されてからは、自分で運んだりしているよ。

やるしかないっぺちゃ

ほかの浜に比べたら、ここはずっといい方だと思うよ。地形が切り立っているから、ほとんどの家は無事だったし、流されたのは船くらいだ。でもな、考えようなんだな。船が流された方がよかったのか、家が流された方がよかったのか。自分は船があるからこうして漁に出ることができる。網繕いも漁具も自分でやれるから、いろいろ工夫して漁をすることができる。でも、船を流された人たちは仕事ができないっちゃ。

震災の前から漁に出る家は少なくなっていたんだ。書き入れ時のアワビ漁の時だって数十軒くらいしか船を出さないしな。ウニ漁はもっと数が減るくらいだ。

消波ブロックを積んだ防潮堤も、津波でところどころ壊れてしまったから、天候が悪い時には船を避難させなければならない。高齢化で後継者がいなければ、なかなか難しいとは思うんだ。防潮堤の工事だって、県の方では入札やってんだよ。でも、ここは外海に面していて厳しい現場になるから応札もなかったそうだ。

港はいつになったら修理してもらえるのかわからねえ。漁に出る人は減っていく。高台移転の災害住宅の家賃がびっくりするくらい高いから自分で家を建てることにした。いま住んでる仮設じゃあ、何軒も先の人のいびきまで聞こえてくる。

でも自分はこうして毎日、海に出るだけだよ。やるしかないっぺちゃ。

笑顔で話してくれる小松さんのバックには、津波で壊されたままの消波ブロックが見える

●TEXT+PHOTO:井上良太