息子へ。被災地からのメール(2012年11月23日)

2012年11月20日~23日

◆ 11月20日・石巻の夜 ~ 11月21日・雄勝町 ~ 11月22日・福島県本宮市 ~ 11月23日・石巻&女川町

で、黒ずくめの彼と父さんが次に行ったのは、すぐお隣のアートギャラリー。それも震災後に新しく解説されたギャラリーで、そこはただ単に絵を飾ったり販売するだけではない。個展を開催する美術作家がその場所に半ば住み込みで、ギャラリー内で作品を制作し、その過程も含めて町を歩くすべての人たちに見てもらおうという、あまりにも先鋭的で、しかもとってもワクワク感がある特別な場所。その晩は、来月から始まる展覧会の作品準備の真っ最中だった。

ちょうどきみが生まれた頃まで、父さんは美術雑誌に記事を書いていたって知ってるよね。ギャラリーのドアを開くのは、とっても楽しみで、ちょっと緊張するものだった。でもね、黒ずくめの先輩はそんな父さんの思いなんか関係なく、やっぱりずけずけとギャラリーの中に入っていくと、驚いたことにポケットに手を突っ込んで、

「両手を出して」

とギャラリーの責任者と制作中の作家さんに言いやったんだ。 右ポケットから4個か5個、左ポケットからやっぱり4個か5個。そしてバッグから5個か6個か。「あれ、意外とたくさん詰め込んでいたんだな」なんて見当違いなことに感心している間に、もらってきたミカンを全部、先輩はギャラリーで頑張ってる二人にあげちゃった。

ここでは、「勝負だ!」なんてファンキーでトリッキーな言葉なんかなくてね、ひとこと「頑張ってね」と伝えると、「さあ行くぞ」。父さんは正体不明の角ばった物質を背中に押し付けられながら(ずっと前から携帯電話だってことはわかっていたけどね)、ギャラリーを出て石巻の夜のとばりの中へと帰っていった。

◆ 闇の先に広がる闇

「名前なんか明かさなくていいんだから」と先輩からは言われている。だから、黒ずくめの彼の名前は伏せておく。でもね、レジリエンスバーに戻るとラジオの収録はとっくに終わっていて、残っているお客さんもほんの数人だけになっていた。でね、マスターの近江さんが目をまん丸くして、ただでさえ大きな瞳をさらに見開いて、開口一番「大丈夫だった?」。

「大丈夫だった?」と言われて、なんだかよく分からなくなった。どうして黒ずくめの先輩は、こんなに不思議な世界を見せてくれたのか。理解できないディテールをちりばめながらも、父さんを石巻の中でも大切な場所のいくつかに案内してくれたことだけは、なんとなくわかった。でも、どうして先輩は黒ずくめだったのか。どうしてミカンロシアンルーレットだったのか。なぜギャラリーでミカンをすべて手渡したのか。そしてどうして父さんを連れ出していったのか。翌日から出張することがあったからの気まぐれ?

黒ずくめの先輩は、一連の夜の散歩を終えると、あとは突き放すようにあっさりと、自宅へ向かって闇の中に帰って行った。謎が頭にいっぱいの父さんは、何とか糸口でもつかみたいくらいだったのだけど、先輩は驚くべき速足で暗がりの中に消えて行った。

屁理屈とか言葉だけの解釈とか、まるっきり通用しない石巻が、レジリエンスバーの外に広がっていた。

◆ 父さんたちがいる場所って、たくさんの人たちが亡くなった場所であるということえーっと、メールに「きみへ」ってあるのが変だという指摘があったから、これからはいつものように「お前」とかって呼ぶことにするね。知らない人が「お前」なんて言葉を文字として目にすると、なんだか怖そうなイメージを与えるかもしれないと思って、よそ行きの言葉を使っていたのだけれど、父さんも何となくやっぱり気持ち悪かった。なので、いつも通りに「お前」とかにさせてもらうよ。

それはさておき、ミカン・ロシアンルーレットの夜が11月20日。その頃、父さんは市町村合併で石巻市の一部になった雄勝町の船越という浜(漁港単位のコミュニティ)に通っていた。雄勝の半島部に位置するその浜の被害は甚大で、150戸のうち3戸しか残らなかったというほどの場所だ。地域の顔役的な人からは、「ここでは面白い話なんか聞けない。井上さん、ほかに行った方がいい」と言われていた。でも通った。通っているうち、船に乗せてもらったりもした。

船越の浜に通う途中で、通り道だった大川小学校に行ったり、やはりたくさんの人たちが亡くなった雄勝病院に立ち寄ったりもしていた。たくさんの人が亡くなった場所に行った後、原因不明の足の痛みも経験した。詳しい話は回にする予定だったけど、転んだわけでも足が攣ったわけでもないのに、突然足のふくらはぎが痛くなった時に父さんが感じたことだけは、ここで伝えておく。

「たくさんの人たちが苦しんだのちに亡くなった場所に来たんだから、足が痛くなるくらいのこと、あってもなにも不思議じゃない」

なぜだか自分でもわからない。痛さにはとっても弱い父さんだから、ちょっと痛かったり痒かったりするだけで大騒ぎなのに、なぜかその時は「痛くなっても当たり前」ふつうに思った。もちろん、大川小学校でも雄勝病院でも祭壇に黙とうして取材の許可をお願いしたよ。よくお願いした上で取材させてもらったつもりだったよ。だけど、死ななくてもすんだ人たちがたくさん亡くなった場所なんだから。

気仙沼では、幽霊の話がまるで当たり前のことのように語られている。たぶん気仙沼だけではなく、いろんな場所で同じだと思う。だってたくさんの人が亡くなっていることは事実なんだから。

オカルトとかそういうことではなく、ふつうのこと、当たり前のこととして、そういうことはあるのだと思う。俺たち、亡くなったたくさんの人たちがあってこそ、いまこうしていいるんだし、そのうち誰だって亡くなるんだから。

たぶん、つながりがない方がおかしいのかもしれない。父さんはそう思うようになった。

◆ 謎──。どうして原発近くの浜があの状態なのか?

足の痛みがなかなか抜けてくれないまま、22日には福島県本宮市に出張した。出張先の石巻からの孫・出張というわけさ。原発から56キロも離れているにもかかわらず、ずっと屋内にいても、国が言っている年間被ばく線量の2倍の被ばくをしてしまうという地域の人たちが東京電力の担当者と話し合いをするところに同席してもらった。

翌日は石巻から東に伸びる牡鹿半島の先端付近まで回ってきた。半島の先端近くの鮎川の町では、大きなバージに乗せられたパワーショベルが、港の岸壁のすぐ近くで海中瓦礫の撤去作業を行っているような状況だった。

同じ石巻市でも中心から離れるほど、復旧のスピードは明らかに遅い。復興が進んでいるという幻想が流布するのはなぜだろう? 石巻市の中心街でさえ、あんな状況なのに。

夕暮れ後に女川原発の近くを走った。人工的に植林された林の向こうに赤い点滅灯が光る巨大な排気塔が不気味だった。女川原発周辺の浜のありさまも衝撃だった。衝撃というか、とにかく何も変わっていないように見える。地元の人の話では「これでも瓦礫は減ったんだよ」ということだが。しかし、「復興?そんなのいつの話なんだか」とも。行く先々でいろいろな話を聞いて、現状のいろいろな姿を見て、何をどう語ればいいのかわからないという思いになっていた。