沖縄そば - 沖縄県各地【島の郷土料理】

郷土料理。素朴で目立たず、だけど、うまい。地域おこしのために誕生する「ご当地グルメ」とはちょっと違う。昔から存在して、どこの家庭でも作られる料理。

沖縄そば

あっさりした味付けのダシに、小麦粉100%の麺、大き目の豚肉に島で採れたねぎ、沖縄特有の揚げたかまぼこ・・・。一見すると、どの地域もどの店もそれほど大差がないように見えます。しかし、場所を変えてひと口食べるたび、「あれっ、ちょっと味が違う・・・」 

中国発、那覇経由、沖縄各地へ

 その起源は14世紀後半(1392年)から15世紀、中国から伝わった支那そばがルーツと言われています。しかし、諸説あるものの、今なおよくわかっていないのが現状で、「その期間にいつの間にか伝えられていた」と言うしかありません。そばには小麦粉が使われていますが、その当時、小麦粉は高級品であったため、支那そばは高級料理でした。食べるのはせいぜい宮廷の人々。一般の人々が食す機会はほぼ皆無だったそうです。 そんな時代が長く続きましたが、小麦粉が高級品ではなくなってきた明治後期、宮崎の実業家が清国人(今でいう中国人)の料理人を店長として雇い、「観海楼」という支那そば屋を開業しました。これが沖縄における大衆そば文化の幕開けと位置付けられています。このそばは「唐人そば」と呼ばれ、絶大な人気を得ました。

 これをきっかけに、支那そば人気が広がり、支那そば屋が続々と開業する動きを見せ始めます。こうして広まっていくなか、当時からのこだわりのない自由な発想で、紅しょうがやピパーチなどが具として使われたりました。のちに紅しょうがは沖縄本島で、ピパーチは八重山諸島で根付いていくのですが、このように、のちに沖縄各地に根付くそばの原型と思われるものも、この明治後期に軒並み登場したのです。 昭和に入り、第二次世界大戦が起こったことで、沖縄は甚大な被害を受け、全ての店舗が一時壊滅・廃業に追い込まれてしまいましたが、米軍の統治下になり、沖縄中に小麦粉が配給され流通しました。これをきっかけに、街の復興とともにそば屋も次々と復活。製麺所なども開業したことで、店舗から家庭まで、爆発的にそば文化が広まっていきました。

 現在では沖縄の各島々で独自の進化を遂げ、それぞれの地域名を冠して各地に根付いています。 

こぼれ話1 「『支那そば』は改めよ!」 1913年(大正5年)、支那そば屋へ警察の指導が入り、「支那そば」の表記は「琉球そば」に改めるように命じられました。このころから「琉球そば」、さらに派生して「沖縄そば」と呼ばれるようになったようです。

こぼれ話2  「『沖縄そば』は改めよ!」 1976年(昭和51年)、沖縄総合事務局※公正取引室から「『沖縄そば』はそばじゃないから呼び方を改めよ」とクレームが入りました。
 沖縄そばが「そば粉を含まない小麦粉100%の麺」というのがその理由。もちろん長年親しんできた県民は猛反発。習慣や伝統を尊重するため、真っ向から交渉に挑みました。沖縄県生麺共同組合理事長ら(当時)が、東京へ直談判へ行くなど、交渉は盛り上がりを見せ、1年後の1977年(昭和52年)、沖縄県内でのみ沖縄そばの呼称が認められるに至りました。この認可が下りた日が10月17日だったことから、10月17日は「沖縄そばの日」と定められています。

※ 本土復帰後の復興開発を効率的に行うために国が設けた機関

沖縄そばの特徴

麺 ・・・ゆで上げた麺に油をまぶして自然冷却。古くはかんすいを使わず、ガジュマルなどの灰汁を用いた自家製だった。ダシ・・・豚骨とかつおのダシがベース。人によっては昆布や椎茸、鶏ガラなどを合わせて旨味を調整する。 

※ ちなみにソーキそばは、ソーキありきで呼ばれていますが、いわゆる沖縄各地のそばと同類です。具がソーキに限定されるものはソーキそばと呼ばれることもあります。

各島々で根付いた沖縄そば

 同じように見えて、少しずつ違う各地のそば。ここでは那覇市を中心に広まった元祖的存在の沖縄そばのほか、宮古そば、八重山そば、大東そばについて紹介します。 あまり気にならない違いではありますが、麺とトッピングがやや違ったりするんです。また同じ地域であったとしても、店や各家庭でダシの種類や味付けが微妙に違ったりするそう・・・。千差万別なんですねー、奥が深い!

(左・沖縄そば 右・宮古そば)

(左・八重山そば 右・大東そば)

八重山そば・・・(C)「石垣島海辺COM」