コロナ禍で利他的な行為へ関心が高まっています。「思いがけず利他」(ミシマ社)では時代の動きから一歩進んだ論理が展開されています。著者の中島先生は『世の中で言われている利他は、僕らが考える利他とはだいぶ違う』と語り、自分がよかれと思ってする利他的な行為は実は利己的なものであるという指摘も。政治学と宗教学の接点を探求したご著書についてと、政治学者として今の日本をどのように捉えているのかをお聞きしました。
中島 岳志(なかじま たけし)
1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞受賞。著書に『パール判事』『秋葉原事件』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『アジア主義』『下中彌三郎』『保守と立憲』『親鸞と日本主義』『利他とは何か』など。ミシマ社からは『現代の超克』(若松英輔とも共著)、『料理と利他』(土井善晴との共著)、『思いがけず利他』を刊行。
メビウスの輪のようにつながる利己と利他
――新刊「思いがけず利他」を偶然に本屋で手に取り、思いがけずおもしろかったので今回詳しくお話をお聞きしたくてご登場いただきます。この本を執筆するきっかけは何でしたか?
ふたつあります。ひとつは勤務先の東京工業大学(以下、東工大と略)未来の人類研究センターでプロジェクトをスタートするにあたり、理工系の大学でどんなテーマで研究を進めればいいのかと言った時に「利他」をテーマに考えましょうと。コロナ禍前提ではなかったのですが、昨年2月から利他プロジェクトが始まりました。
東工大は企業とのコラボレーションが多く、企業側が求めるのが企業イメージ。環境にやさしい、SDGsに乗っ取っているかは非常に関心が高い。けれども、私は何か引っ掛かるものがずっとあって、いわゆる企業の社会貢献は、利他的に見えてうっすらと胡散臭い。結局、企業のイメージアップのためにやっていることでは…と複雑な気持ちになってしまう。この複雑な気持ちの先にいかないと、地球環境問題を考えるのは難しいだろうと思ったのです。
――SDGsという言葉が独り歩きして流行化しているのが個人的には胡散臭さを増している気がします。執筆の動機としてのもう一つとは?
もう一つは、政治学者として自己責任論という問題にこの10数年ぶつかり、結局のところ行政サービスを小さくし、自己責任でやってくださいねという社会にこの20年なってきてしまった。この自己責任社会をどう越えたらいいか。その論理を考えたかった。自分の努力や能力でやってきたことに対して、生活保護をもらっているような奴は怠けてきただけ。そんな奴は自己責任だ、という論理が多い。
たとえば東工大では優秀な学生が多く、オレは頑張ってきたという感覚が強い。自分の勉強机が家にあり、塾に通えたという豊かさ、経済的支援を受けられたのは偶然の産物。僕はいわゆる底辺校と言われる学校の取材経験がありますが、家に部屋も自分の机すらなく、ぐちゃぐちゃな家の中で親が深夜まで帰ってこない。卓袱台で宿題をやっている子がたくさんいる。そうした環境は、もしかしたら自分であった可能性を想像できないと、自己責任論や能力主義は超えられない。これは政治的に大きな課題で、自分の能力でやってきたことを認めてほしい論理を超える「利他」という論理が必要と考えました。それが最初のテーマ設定の動機でした。
――なるほど。自己責任論を超える利他の論理。しかし利他の皮を被った利己という表現も鋭いです。利他と利己は表裏一体なのでしょうか?
僕はメビウスの輪に例えています。SDGsの話と同じく、行為としては確かに利他的なものに見えるけれど、これをやることによって褒められたいとか地位や名誉を得たいというものが滲みだしていると人は利己的だと思うのです。利己と利他は綺麗な反対語ではなく、メビウスの輪のようにつながっている。
これはマルセル・モースというフランスの学者が『贈与論』という本に「ギフトの中に毒が含まれている」と書いていますが、贈り物は相手を支配する意味をもつと言っています。ギフトをもらうと一瞬うれしいものの、最近では価格もネットで調べられる。例えば1万円くらいの高価なものだと、うれしい反面プレッシャーにもなりお返しどうしようとなる。これが続くと、負債感という負い目につながる。もらってばかりだと支配・被支配の関係でマウントされているようになり、ものを言いたくても、あれもらって返してないしとなる。それが贈与の中にはあって、モースは北アメリカ先住民の「ポトラッチ」に見ます。これは典型的なアメリカ先住民の儀礼で、返しきれないくらいのものをどさっと上げてしまう。それによって相手が返せないと向こうの部族を支配していく。どさっとあげる動機としては神からの指令とか、いろんなものがありますが世俗的には権力関係の贈与として使われる。ものをあげているから利他ではなく、利己的な支配力がそこにある。ストーカーのプレゼントもそうですが、もらう相手は怖いわけです。
――ギフトに毒が!それは自戒を込めないといけませんね。よかれと思うことが支配につながる。
そう考えると、与えることによって私たちは利他とか贈与をうみだせるか?という問題に辿り着く。ありがた迷惑というのがあって、僕が食べさせたいものが、相手にとって体調を崩してしまうようなものであったら困りますよね。「これ食べれないんです」と断っても、僕が無理に食べさせようとすれば、利己が前に出て暴力的な行為になる。つまり利他の瞬間は与える時ではなく、受け取られた時なんです。これがとても重要なことで、受け取りこそが利他をうみだす。僕たちは主体的に与えることによって利他ができるのか?という問題が浮上する。これは利他の構造としてとても重要です。
――何かを与える側ではなく、それを受け取る側の意識が「利他」につながるのですね?
そうですね。本でも書きましたが「あの時のひとこと」というのがあります。僕が中学生の時に上級生と喧嘩をして、その時に相手を殴ってしまった。振り返れば反省しきりですが、先生にめちゃくちゃ怒られて、『中島君の正義感はわかるけれど、暴力で示したらいかん。相手を説得することが重要だ。運動部に入らず勉強して知性によって解決できる方法を身につけなさい』と言われました。僕は小学生の頃も勉強はビリに近くて、親と相談して塾へ行くことになった。塾では三段階あるクラスのビリのクラスで、先生に言われて渋々通い出したし、その時は嫌な思い出でした。
でも20年くらい経って、インドでフィールドワークをしている時、学者になろうとしている自分の姿をふと垣間見て、あの時に先生に言ってもらったことがこうして今につながっているんだと、急にその時の思い出が感謝の気持ちになった。20年経て僕はようやく先生の言葉を受け止められ、先生はいきなり利他の主体として浮上した。残念ながらもう他界されておられ、僕はお礼を伝えられていないのですが、利他というのは与えられた瞬間には表れず、20年経って受け止められた時に浮上する。そういう時制があるんです。
――時間を掛けて受け止められることって、他にもいろいろありそうですね。
本にも書きましたが、死者の問題があります。弔うことは単に死者を懐かしむことではなく、利他を起動させるとても重要なポイントです。ああ、この人のおかげで自分がいるんだと。
僕は北海道に10年住んでいたことがありますが、原野だった場所に屯田兵がやってきて札幌の街を開拓してくれたから住めた。亡くなった無名の人たちの深い時間<ディープタイム>に想いを馳せるのは、利他として浮上させることになる。長いスパンで考えれば、僕らはそれを受け取ることが重要で、自分で何かやろうとするより、自分が支えられていることに目を向けて、ありがたいと感じることによって世界の循環を変えていくことができる。その方向性を模索したいというのがあります。僕がずっと関わっている利他プロジェクトの中のひとつで「弔い研究会」もやっています。弔いを真剣に考えないと利他の問題に辿り着かないし、政治学者として最も大切なことだと思っています。
死者を弔うことが民主主義の根幹を担う
――なるほど。法事やお墓参りも先祖に想いを馳せて感謝する気持ちから行動しますね。弔いを真剣に考えて、先生は政治学者としてこの国をどのように捉えていらっしゃいますか?
別の角度からずっと考えてきたのは、僕たちの民主主義なんです。近年では立憲主義という考え方が注目されています。2015年の安保法制の時に自民党が憲法を全然守らないので、憲法によって権力は縛られているという立憲主義が強調されました。
政治学的に、憲法学的にいうと、民主主義と立憲主義はぶつかります。そう簡単にうまくいかない。民主主義というのは生きてるものの多数決によって何でも決まってしまう。今回の選挙でも多数を取った自民党が大きな力を持ち、いろんな政策を推し進めます。しかし、いくら民主主義でも、たとえば過半数が『言論の自由なんてある程度抑圧してもいい』と言ったとしても、『憲法で禁じられているのでそれはダメです』となります。つまり民主主義は過半数によって物事を決定できるシステムとなっているけれども、それを憲法が阻んでいる。いくら過半数がイエスといっても、憲法はノーだと。なので、民主主義と立憲主義はぶつかるところがある。
これをどうやって解決するかは難問です。過半数を得ているのになんで制約されなくてはいけないんだというのが橋下元大阪市長や、安倍元首相の姿勢です。結局、民主主義と立憲主義という二つは主語が対立している。つまり民主主義は生きている人たちによって構成されており、生きている人しか投票できない生者の過半数のこと。ところが憲法の主語は死者なんです。亡くなった人たちが自分たちの経験に則して、例えば言論弾圧の時代に、こういうことをしたら人々の自由なんてむちゃくちゃになりますよ、と伝えている。あるいは三権分立がなかったら政治家に一元化されて甘い物になってしまう。立法、行政、司法と分けないといけませんとしてるのは、歴史をかけて様々な失敗を英知によって積み重ねてきた。死者の経験値が現在や未来を拘束しているのです。
――死者から託された歴史と英知があるから憲法改正とか簡単に言ってはいけないのですね。
日本国憲法97条には「基本的人権」について、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。死者たちがこういうことをやったらマズいよ、こんなに失敗してきたんだから…と未来に付託し、その権利を信託しているのが憲法です。死者を蔑ろにして、今生きている者だけで何でも決めるのはマズい。死者も民主主義の制度に招かないといけない。憲法が蔑ろにされているというのは、死者が蔑ろにされているのと同じです。今の人間だけで何でもできると思いあがっている。
しかるに政治学者として最も重要視すべきは、お葬式とか三回忌とかそういう仏事をちゃんとやってきたこと。死者たちとのつながりが希薄化したことで民主主義の危機につながっているのではないかと、僕は考えています。
宗教学上の死者と接点を考えてこなかったのですが、政治と死者は非常につながっている。死者によって民主主義、利他、世界観。そこから巻き返してSDGsや環境問題。いろんな構造の根底に死者弔いは関わっていると思う。政治学者としては変わったことを言ってますよね。
――すごくおもしろい。確かにそうですよね。SDGsは服をどうする?みたいな外面的な話にすり替えられている気がして。確かに服もあるけど、それを語るなら日本の環境という歴史も知るべきだと思う。先日観た映画「minamata」もまさにそうした歴史を紐解くことでSDGsにつながるというメッセージを受け取って、先生がおっしゃられている利他とつながった気がします。