山がある。その手前に見える建物は公営住宅。そして道が続いている。遠くと手前の方はスロープになっていて、その部分には仮設のガードレールが置かれているのが分かる。
ただの道だ。
でも、ただの道ではない。
手前からスロープを下って、しばらく先でスロープを上がっていくその中間、埃に汚れた平らな道は7年前に津波に襲われた道。高さ15mの水の塊が泥とさまざまなものをごちゃ混ぜにして行き来した道。津波が通り過ぎた後には、瓦礫に埋もれた道。その瓦礫の中にたくさんの命と、たくさんの大切な物が横たわっていた道。嘆きの道。恨みの道。慟哭の道。どんな言葉をもってしても言い表すことの出来ない、道。
岩手県陸前高田市。この町はいまかさ上げの土で埋め立てられようとしている。津波の高さに匹敵する赤土が町を埋め尽くす。その上に新しい街を建設するために。
かつてそこにあった建物も生活も何もかもが失われ、さらに瓦礫もほとんどが撤去された後、長いこと、陸前高田市だった場所には道だけが残っていた。
残った道は悲しみの道。しかし、かつての町並みを辛うじて残す、記憶のよすがでもあった。
それを思うと、まだ埋め立てられることなく残ったこの道を愛おしく思う気持ちもあるという。ここに何があった、ここで何をした、かつてこの道を歩いたときどんなことを考えていた…。たくさんの思い出がよみがえる場所でもあるという。悲しみの道ではあるのだけれど。
それを思うと、壊れた歩道も、街路樹の植え込みも、点字ブロックも愛おしい。
ほんの200mほどの真っすぐな道を歩いていると、たとえ津波の前の町並みを知らなくても思い出がよみがえってくるような、不思議な気持ちになってしまう。
建物があった場所はコンクリートの基礎も撤去されて、枯れ草が風に揺れる更地になってしまったが、植え込みの中の土には7年前が残っている。
醤油皿も蛇口も、土の中でキラキラ光る窓ガラスの破片も、キャンプ用の五徳ナイフのようなものも、そして崩れかけた植え込みのブロックまでもが、そこにあった暮らしをいまに伝えるたいせつな結晶だ。
植え込みの中には球根が転がっている。壊れた看板の文字は「復興支援」と読める。ここは、かさ上げ工事が始まるまで花壇として使われていた場所でもあった。立ち入りが禁止されて、花壇の手入れができなくなって3シーズンは経っているが、雨に打たれて地表に露出して横ざまに転がった球根から芽が出ているのだ。
この道は、海沿いの土地をほとんど盛り土せずに整備される復興祈念公園と、かさ上げされた商業地や住宅地、さらに津波の際には避難路の幹線となるシンボルロードとして生まれかわることになる。つまり、この道が津波後の姿のままでいるのは期間限定。
消火栓の残骸がある。
火災の跡を残すアスファルトがある。
追加工事の跡が残るマンホールがある。このマンホールの工事が行われたのは津波の前だったのか、あるいは津波後だったのか。
所有者が個人的に震災遺構として残すと言っている米沢商会のビルがこんなに間近に見える。
ここは津波に襲われた道。津波後の姿をいまに伝える道。津波前のまちの面影を、たとえわずかであっても残す道。
山側には中心市街地の核として昨年オープンした商業施設「アバッセたかた」が見える。振り返れば、看板に津波到達の高さを刻んだガソリンスタンド「オカモト」や、三角屋根が目印の震災遺構「タピック45」が見える。
かさ上げで人工的に作られた高台と、海辺の祈念公園用地の間の道。この道は悲しみの道。そして何かたいせつなもの、とても言葉に表現できないようなものをいまに伝える、しかし期間限定の道。