今年になってから久しぶりに一本松茶屋の駐車場に行って、何となく落ち着かない気分になった。
何かが変わった。
以前はこんな風じゃなかったような気がするのだが…。
変化に気づくのにしばらく時間を要した。カメラのファインダーを覗いてみて、ようやく何が変わったのかを了解した。
一本松茶屋の駐車場の東側は、かさ上げ用の土の仮置き場だった。近くの気仙川の対岸から吊り橋と巨大ベルトコンベアで運ばれた土が盛り上げられた場所だった。3年ほど前にベルトコンベアが撤去された後は、巨大な重機とナンバープレートのない(つまり構内作業専用の)大型ダンプの世界だった。
積み上げられた土の山の高さは10メートル以上。おそらく最終的なかさ上げ高さの14メートルに近かっただろう。近くから、あるいは遠くから見ても、巨大な壁のように見えていた。それが忽然となくなった。
一本松茶屋の駐車場からは、屋上の出っ張りまで津波が押し寄せた米沢商会さんのビルがまるごとはっきり見えるようになった。その向こうには、新しい中心市街地として整備が進むアバッセたかた周辺も望まれる。それが2018年の年頭からの景色であることは記憶しておいた方がいい。その理由はまだ、説明できるほどに結晶はしていないが、そう感じる。
それまであった土の壁がなくなるというのは何を意味するのだろうか。
圧倒的な存在感で視界を遮る壁として存在した大量の土は消えてしまったわけではない。巨大な土の山は、10トン積みの大型ダンプの荷台に積み込まれる土の塊=マッスとして、それも何千何万ものマッスとして運び出されて、一本松茶屋よりもずっと山側の平坦地や窪地に、新しい高台を築きあげているのだ。
無くなった分は、必ずどこかに新しい土地をつくっている。しかし、かさ上げ用地が広大すぎるせいか、具体的にどこを埋めたかは分かりにくい。
「かさ上げ用の仮置き場」という言葉から、いずれはなくなるものと分かっていたが、巨大ベルトコンベアが轟音をたてていた頃には、現在のこの景色を想像することはできなかった。巨大な土の山で姿が見えなくなった米沢商会さんのビルが、再び見えるようになろうとは。被災した建物のほとんどが撤去された高田の町にぽつんと立つ、そのビルとまわりに広がる地面を見渡せる日が来ようとは。
さらに思う。ベルトコンベアが大量の土を運び出すようになる前、この辺りは国道沿いに商店など津波で流された建物の基礎が残るばかりで、道路より内側には荒れ果てた広い湿地が広がっていたことを。葦が揺れる湿地がかつては広大な田圃だったことを。少し山手に行った所には県立病院の建物があったことを。
その田んぼの畦道に車で入っていったことがある。2012年か2013年のことだ。シロツメクサが咲き乱れる畦道に入ってしばらく行くと泥濘にタイヤをとられた。元々軽トラックが1台通れるくらいの農作業道だから、Uターンなどできない。一度踏んだ道をバックで戻ろうとすると完全にスタックしてしまうかもしれない。ヒヤヒヤしながら前進で通り抜けた。畦道の泥濘が田圃2枚か3枚分くらいだったは幸いだった。しかし、その先どう行けばいいのか分からない。何とかして舗装が残っている道路に早く出たい。ナビなど何の役にも立たない。目印は米沢商会さんのビルだった。工事車両が入れるように砕石が入れられた道を選んで走る。ようやく通り抜けたところはかつての駅の近くの踏切だった。
後に知り合った人から聞いた。この辺りの広い田圃は、彼の伯父さんの田んぼだったということを。「もう歳だから稲作はやめるべ」と年始に話したその年の3月に亡くなられたということを。
忽然と姿を消した土の壁。「いつの間にか」とか「気がつけば」と感じるのは、工事が急ピッチで進んでいることを示している。
復興工事が進むのは「いいこと」に違いない。しかし、よろこんでばかりいられないような気持ちがあるのもまた事実だ。
一本松茶屋の周辺に限って言えば、いま目にしている光景は、津波から数年までの間の姿に近い。歩道の縁石や植え込みは3.11以前のもののまま。
やがて、津波前からのもののほとんどが、新しいものに置き換えられていくだろう。
復興を止めろなんていう訳ではもちろん、ない、が、ただ、この場所に立つと、了解しきれない、釈然としない、何かもやもやした気持ちになる。