半世紀に及ぶ念願がようやく叶って架橋がなった気仙沼の大島架橋(現在、アクセス道路の工事中)。本州側最寄りの鶴ヶ浦の海辺にこんな言葉が記されている。
大地震
理屈はいらぬ すぐ高台へ
殴り書きのような看板の言葉は、文字通り鈍器で殴りかかってくるような迫力だ。
三ノ浜漁港の岸壁から徒歩10歩ほど。この場所には、殴り書きの避難標示のほかにもさまざまな看板がところ狭しと並ぶ。
避難場所を示すサインボード、矢印で斜面の上を示す避難場所看板、急傾斜地を示す案内板、そしてチリ地震津波の水位、見上げた崖の上には明治三陸津波の水位を示すボードもある。写真の左奥には、昭和津波の石碑も立っている。
「地震がきたら 津波に注意」というサインボードの言葉はずいぶん大人しい感じだが、なぜか「がきたら」の部分が消されている。
地震「がきたら」なんて悠長なことを言ってる暇があったら、すぐ逃げろ。「地震、即津波だ」という思いが、「がきたら」を消す行為につながったのか。
昭和三陸津波の石碑にはこうある。
大地震 どんと
沖鳴り そら津浪
「理屈はいらぬ」ほどの迫力はないものの、「どん」という擬音語に力がこもる。昭和三陸津波の後、朝日新聞社に寄せられた義援金をもとに東北各地に建立された津波の石碑のひとつだ。
「そら津浪」という言葉にはどこか他人事めいた印象もあるが、繰り返し読んでいるうちに、「そらみたことか!」と、避難せずに被害に遭ってしまう「慢心」を戒める言葉のようにも思えてくる。そんな立ち位置から読み直すと、この碑文には「生死を分つ厳然たる理」が刻印されているのが伝わってくる。
何しろ、この小さな漁港周辺は、平らなところとてほとんどない、急斜面だらけの土地だ。しかも目の前には大島が迫るので、遠く沖合から津波が押し寄せてくるのを眺めることもできない。津波を目視した時にはすでに手遅れという土地柄なのだ。
石碑の横、御嶽神社に上ってく細くて急な階段の途中に、「明治三陸地震津波」の到達高さを示すボードがある。水位は「海面から6.0m」とあるが、急な崖地の6メートルは思いのほか高い。まして、この港に津波が押し寄せてきたのを見てから逃げたのでは、とても逃げ切れない。「理屈はいらぬ」という言葉が、「そら津浪」という言葉が、身体に迫ってくる。
神社への階段をのぼって、「明治」のボードを間近に見る。
アルミ製のボードの上がひん曲がっている。これは何を意味するのか。
同じ高さから、坂の上の神社方面を見る。ケーブルテレビの支柱だろうか、ポールがよじ曲がっている。ポールに設置された機器は現在も使われているようだが、柱にはロープや漁具の切れ端のようなものがぶら下がっている。
東日本大震災の津波は、明治三陸津波の到達点よりも高く、10メートル近い支柱をよじ曲げ、その引き並みで「明治」のボードも破損した。その現実がここにある。
鶴ヶ浦の漁港周辺には、津波の恐ろしさが結晶したまま、いまもここにある。
リアス式海岸の急勾配。ほとんど唯一といってもいいくらいの海岸沿いの平地。正面に大島の亀山がそびえ、沖は見えず、津波が来たときには、島の両岸を迂回した津波が合わさって高さを増すような場所。この狭い平地に立ち並ぶ津波警戒の言葉には、死なずに生きることの大切さのみならず、慢心への戒めと、悔恨が込められているのかもしれない。
鶴ヶ浦はしずかで美しい海。養殖イカダが浮かぶ光景は、日本らしい旅情をも感じさせる。そのうるわしさとおそろしさの両方を、こころに留めなければならない。