釜石市の北、鵜住居地区で進む災害復旧工事。鵜住居といえば、小中学校の生徒が助け合って津波被害を逃れた土地として知られる。近年では同じ近隣で被災して亡くなられた方も少なからずいたことから呼称に修正が必要と言われるようになってはいるものの、「釜石の奇跡」として広く知られた場所。
釜石市の中心地から北へトンネルや屈曲する坂道をたどり、坂の頂上を越えた先が鵜住居地区だ。さらに北側は大槌町に接している。
峠の坂道を下っていく時に目にする光景は、この数年の間に大きく変化した。かつて土色の造成地が広がるばかりだった場所に、いまでは災害公営住宅や戸建ての住宅、高台には開校に向けて工事が急ピッチの小学校や中学校の施設も見える。そして2019年ラグビーワールドカップの競技場として整備が進められている土地もはるかに見渡せる(ここは震災当時、鵜住居小学校と釜石東中学校があった場所にほぼ相当する)。
かつてJR山田線の鉄路だったところが、JR東日本による復旧工事が進められている模様を伝えた。現在進められている工事はJRによるものだが、鉄道復旧後は三陸鉄道の運営に移管される予定だ。
震災後わたしが鵜住居地区を訪ねたのは遅く、2014年になってからだった。震災から3年近くを経過してなお、一面が荒れ地のようにしか見えない中に島型のホームがぽつんと残されていた。そしてその壁面にはイギリスからの救助隊や岩手県警の機動隊が捜索を行ったことを示すペイントが生々しく描かれていた。
その日から何度か鵜住居を訪ねるたびに、駅のホームがどうなったのか気になって探そうとしてきたのだが、町並みは造り変えられ、道路は付け替えられ、ずっと駅のあった場所を探し出せずにいた。しかし、駅舎はむかしと変わらない場所にあった。
むかしと変わらない場所にだ。
鉄路が続く写真を撮影しながら、ほんの一瞬、わたしは懐かしく感じていた。あ、あそこに見えるのは、3年前に近くまで行って見て来たあのホームだと。あのペイントが付けられていた駅舎なのだと。
鵜住居地区は国道45号線と、海沿いを根浜海岸方面に向かう県道に挟まれた広い範囲が工事のために立ち入り禁止だった。つい最近まで、カメラを持って歩いているだけで工事現場の誘導員から、「撮影禁止ですから」と声をかけられていたくらいだ。
そんな数年間を経て、久しぶりに鵜住居駅を身近に見た時、不謹慎とは知りながら、なつかしい思いを抱いてしまった。しかし、駅より海に近い場所の小中学生や保育園の子どもたちは避難したものの、駅前にあった公民館ではたくさんの人たちが犠牲になられた。それは、いまも重たい事実としてこの場所にある。
鵜住居は「奇跡」という一枚看板を掲げことなどできない場所だった。
防災とか減災という観点から「釜石の奇跡」にフォーカスするのはいいと思う。ただ、この場所で起きた現実は忘れてはならない。わたし自身が、つい「奇跡」が起きた場所だなんて思ってしまいそうになることも含め、自戒とともに強くそう思う。
さて、かつての鵜住居駅はいまどうなっているか。
JR東日本が復旧工事を負担して、やがて三陸鉄道の運営に移管されるこの駅。2017年初の状況はこんな感じだ。
かつては島型ホームの真ん中に、地下道を経由して上っていく形だったのだが、駅の外側とホームを結んでいたトンネルは埋め立てられてしまった。その代わりに、駅の釜石よりのところに、線路を渡るための踏切を含めたスロープが建設されている。
鵜住居駅は、かつての姿とは違う形での再建になるということらしい。
しかし、かつてホームだった場所、というかかつてのホームそのものは、現在地でそのまま復旧・再利用される模様だ。
ホームへのアクセスに使われていた地下トンネルは廃止されるものの、ホームそのものはおそらく同様の高さ(この先多少のかさ上げがあるにしても、鉄路自体が現状を基準に再建されているのだから、何メートルも高いホームになるとは考えにくい)になるものと見込まれる。
繰り返しになるが、ここは「釜石の奇跡」の舞台となった場所。釜石の奇跡という言葉にふたつの意味、希望と慰霊の思いが込められていることは、ここまでの話でご理解いただけているだろう。この場所は、ほとんど同じ標高の公民館で多くの人たちが犠牲になられた悔やみと悼みの場所でもあるのだから。そして、そのほぼ同じ場所で、鉄道の再建が進められている。
「鉄道なくば町の復興はありえない」という声は、鉄路が失われることがほぼ確定した陸前高田でも、いまでもしばしば聞かれる言葉だ。しかし、鉄路が(しかも別会社に移管される前提で造られている鉄道路線が)被災の最中のその場所のまま、復旧されつつあること。そのことを私たちはどう考えればいいのだろうか。
震災は人ごとではないと言われる。であればなおのこと、この状況は釜石市鵜住居地区だけの「近い将来」の話ではないはずだ。