いつまでこんな写真を撮っていなければならないんだろう。
福島県飯舘村の役場前に設置された線量計を撮影していたら、そんな声が聞こえてきた。声がしたのは外からではなく、自分の内側から。何しろ周りには人影ひとつないのだから。
村役場にて
村役場の隣には村民の交流の場となっている施設がある。向かいは特別養護老人ホーム。はす向かいにはクリニックもあって、少し歩けば中学校もある(中学校は現在、福島市で授業を行っている)。飯舘村の中心部といって差し支えない場所なのだが、役場の奥の方にわずかに灯りがともっているばかり。クリニックの玄関には「毎週火木診療中 診療時間9~12時」と貼り出されている。
「0.29マイクロシーベルト/時」という数値が高いのか低いのか、自分には判断できない。前に来た時に比べるとずいぶん低くなってはいる。それでも、この場所に線量計があるということそれ自体が、東京電力福島第一原子力発電所事故の被災地であるという事実と現実を示している。(それにしても、線量計の上の赤と緑のランプは何を意味しているのだろう?)
線量計の隣にはお地蔵さんと村民歌の碑が立てられていて、お地蔵さんの頭をなでると歌が流れるという仕組みだった。
山 美わしく
水 清らかな
その名も飯舘
わがふるさとよ
みどりの林に
小鳥は歌い
うらら春陽に
さわらび萌える
あ々われら
今こそ手と手
固くつなぎて
村を興さん 村を興さん
土 よく肥えて
人 情ある
その名も飯舘
わがふるさとよ
実りの稲田に
陽は照りはえて
続く阿武隈
山幸を歌う
あ々われら
夢大らかに
ともに励みて
村を富まさん 村を富まさん
引用元:飯舘村村民歌「夢大らかに」
凍てつくような夕暮れの寒空の下、村民歌が鳴り響く。鳴らしたまま立ち去る気になれず、最後まで聞いた。飯舘村はいい土地だったという話はよく耳にする。相馬市や南相馬市とのつながりも深く、人的交流も盛んで、沿岸部の人たちにとってはマザータウンのような場所だったという話を聞いたこともある。村民歌にうたわれているのはまさにそうした自然と人の豊かさだった。しかしいくら村を讃えようとも、原発事故被災地という現実とのコントラストを強めてしまうのが悲しい。
避難指示があと3カ月で解除される村で
昨年報道されたところでは、飯舘村の避難指示は2017年の3月に解除されるのだという。原子力災害現地対策本部の文書には「避難指示解除(平成29年3月31日)」と明記されている。(中学校などの帰還は2018年4月からと伝えられている)。「ふるさとへの帰還に先だつ長期の宿泊」という制度も2016年7月から始まっている。
村内を走っていると、ところどころに灯りのともる建物が見かけられた。灯りを目にすると、そこに人がいるのだと思ってほっとする。しかし、しばらく走っていて、電気がついているのは行政機関と金融機関と郵便局、そしてコンビニくらいだと気づいた。灯りのともる民家はほとんどない。家々の駐車場も空っぽのところがほとんど。道を歩く人の姿は皆無だった。
この日は2016年の年末、12月30日。長期民宿制度を利用してふるさとで正月を迎える人がいてもよさそうなものだったのだが…
もしかしたら、買い物かなにかに出かけていてたまたま留守だったのかもしれない。でも、たとえ電気が消えていても、駐車場に車がなくても、人が暮らしている家とそうでない家は雰囲気でわかるものだ。
年末なのに人の気配を感じることのない村。役場前に線量計が設置されていなければならない事実と現実を肌で感じるほかなかった。
氷点下を示す温度計とは別の寒さと厳しさが突き刺さってくる。
日が落ちた村を走りながら、さっき行った村役場の正面玄関前に、飯舘村振興公社の看板が置かれていたのを思い出した。何とも中途半端な場所に置かれた、妙に小さな立ち入り禁止看板だった。あまりにも不思議だったので写真も撮っておいた。重しまで付けて設置されていた場所は、石敷の駐車場のようなスペースのほぼ真ん中。広場の真ん中より奥に入っていけない理由が何なのか、まさか役場に入ることを禁じているのではないと思うのだが、その立ち入り禁止看板の中途半端さまでが、飯舘村の現在の状況を象徴しているように思うのは考え過ぎだろうか?