明治29年、歳は丙申にあり。6月15日、午後8時、突如として巨涛、激浪が轟然として襲いかかってきた。樹木を抜き去り、大岩をも倒壊させ、家々を漂蕩、人も家畜も波間に浮沈し、壮絶な悲鳴と喚叫が響き渡り、海も陸も空も一瞬にして悲惨な地獄と化した。
その日はたまたま旧暦の端午の節句に当たり、朝から小雨が降りしきる中、家々では宴が催され、親子の愛、夫婦の情、兄弟友人の親交を温めあっていた多くの人たちが犠牲となった。
多くの人々が亡くなる中、生き残った人々の多くも腕を挫き、足を損ねた。さらに家なく、衣服なく、食べるものもなく、病に苦しみ、雨露にさらされて、天に嘆き地を嘆き、死なずに生き残ったことを恨む惨の極みであった。
引用元:「海嘯記念碑」の碑文の一部を要約
多くの人々が亡くなった大津波の七周年にこの碑を建てた人々は、津波災害の後の苦しみを生き延びた人たちであったということに注目したい。
生き残った苦しみ
明治三陸津波が発生したのは6月15日。津波によって田んぼや雑穀畑が失われてしまえば、その年の秋の収穫も望めない。働き手が生き残っていたとしても、農業で食べ物が得られるのは翌年の秋。家族や友人、仲間たちを亡くしたのみならず、家も仕事も食べ物も失った人たちの生きる苦しみはいかばかりだったか。
釜石の「海嘯記念碑」ばかりではない。震災直後の錦絵にも生き残ったものの苦しみが記されている。
幸いに逃れしも或はために不具者となり、或は食うに粟なく、その惨憺悽愴たるの状況、能く筆舌の尽くす所にあらじ。
引用元:「明治丙申 三陸海嘯之実況」
この悲惨な境界を生き延びた者にしても、家なく、食なく、家族なく、財産なく、負傷者は痛みに斃れ、健康者は餓に迫る。その惨状は実に酸鼻の至り…
引用元:「岩手県青森県宮城県大海嘯画報」
石応禅寺山門前に建てられた二体の地蔵菩薩像の背中にも、建立の由来として、生き残った人の苦しみが書き記されている。
釜石町住民の溺死者は、実に2963人に上った。その中には、一家ことごとく斃れ、親族なく姻戚も失われた無縁の屍がおびただしかった。
引用元:「明治三陸海嘯紀念之像」の銘の一部を要約
そのような無縁の人々は石応禅寺ほかに合葬され、その場所に建立されたのがこの地蔵菩薩なのだという。
「岩手県青森県宮城県大海嘯画報」に描かれたように、家族を失ってみなしごとなった人も少なくなかったと伝えられる。生き残った人たちは、ただ生きたというだけで、明日の命すら知れない状況の中、無縁となった仏様を荼毘にふし、弔い、そしてぎりぎりの苦しみの中を生きた。
数々の慰霊の碑も地蔵菩薩の像も、そのような人たちによって建てられたものだ。未来に向けて、繰り返すことがないようにとの戒めも込めて。
天災は忘れた頃にやってくる
しかし、地蔵菩薩像の脇には「今次の震災が永久に教訓と成ることを願ってこの地に建立する」と刻まれた石柱が2011年の大震災の後に建てられている。その言葉とともに、寺田寅彦の有名な警句を思い出さずにはいられない。
「天災は忘れた頃にやってくる」との言葉をのこした寺田寅彦は、「津浪と人間」という小文の最後に追記としてこう記している。
(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋れてしまっているそうである。
この文章は1933年(昭和8年)5月1日発行の「鉄塔」に掲載されたもの。つまり、明治三陸津波の37年後に起きた昭和三陸津波の後に記されたものだ。
記憶は必ず伝えられると信じたい思いが揺らいでしまう。たしかに大只越公園の慰霊碑にも判読できないものが少なくなかった。
先祖を親と思えたら
石応禅寺の寺務所でお坊さんに聞いたところ、明治の津波の前に火災に遭った石応禅寺の再建がなったのが、ちょうど明治29年の初めのことだったという。津波は山門前の地蔵菩薩像の前まで達し、寺は無縁となった仏様の供養を引き受けた。37年後の昭和の三陸津波の際には本堂が避難所として開放され、その時の様子は「岩手県昭和震災誌」に写真として収められている。
三陸沿岸には山の急斜面を利用した墓地がいたるところで見られる。石応禅寺の山手にびっしりと並ぶ墓地は、明治の再建以降建てられたものだと聞いた。耕して天に至るという言葉があるが、ここ釜石の風景は「人々の命を弔って天に至る」というべきもの。
死人とはかつて生きた人であるという当たり前のことを思い出す。ここには生きた人々の思いが眠っている。そして、その人たちの中には、大津波と大津波後の悲惨を生き、死んでいった多くの人たちも含まれる。
先祖を親と思えたら。あるいは、他家の墓であっても縁を感じることができたなら。
120年前の三陸津波で多くの先祖を亡くした後に、全村での高台移転を完遂した南三陸町吉浜で出会ったおじさんの言葉が思い出される。
「いやいや、俺たちは明治の頃に親たちに死なれているからな。たくさん辛い思いをしてきてんだ」
記憶は簡単に失われてしまうものなのかもしれない。しかし、記憶をつないでいくことは、無理だと諦めてしまうほどには困難なことではない。