ポーランドのアウシュビッツ強制収容所を後にして向かったのが、バルト三国のなかで最も南にあるリトアニアです。
同国を訪れた一番の目的はロシアのビザを取得するためでした。
「リトアニア」と「ビザ」と言えば、日本人外交官・杉原千畝(すぎはらちうね)が発給した「命のビザ」が有名です。
ご存知の方も多いかもしれませんが、杉原千畝は第二次世界大戦中にリトアニアのカウナスにあった日本領事館で領事代理を務めていた人物です。
当時のリトアニアには、ポーランドに進行したナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ系ポーランド人が多くいました。
彼らはさらに第三国へ避難するため、日本を通過するビザをカウナスの日本領事館に求めます。1940年の夏のことです。
当時の日本政府は「避難先の国の入国許可があること」や「避難先の国までの旅費を持っている人」といった条件を満たす人に対してのみ、ビザを発給するように指示していたそうです。
しかし、申請者が日本通過のビザを取得することができなければ、迫害されることが想定されます。そこで杉原領事代理は本国の命令に背いて、条件を満たしていない人にもビザを発給しました。
この時、旧ポーランド人に出されたビザは、領事館が閉められる(※ソ連がリトアニアを併合したために、各国の大使館等は閉鎖)までの約1ヶ月間で約1500枚だったといいます。ビザ1枚で1家族が対象であり、少なくとも6000人のユダヤ系ポーランド人が命を救われたそうです。
ソ連に併合されたリトアニアは、1941年にナチス・ドイツに占領され、20万人近いユダヤ人が虐殺されたといいます。
多くの人を救った杉原千畝はその後、チェコ、ルーマニアなどで勤務したものの、終戦後、外務省を退職しました。これは命令に反してビザを発給したための実質的な免職だったともいいます。
私はリトアニアでロシアのビザを観光目的で取りました。たしか現地の旅行代理店にビザ申請を依頼したため、苦労した記憶がありません。
しかし、いまから76年前の1940年、たった1枚のビザに対してまさに命がけで申請をした方々がいて、それに対して国の命令に背いてまで発行した人がいる。いまは同様の行動を取っても、政府の対応や世論の支持の有無などが異なるかもしれませんが、第二次世界大戦当時は現代とは比較にならない大きな決断であったと思います。
11年前の旅行当時は、ただ単にロシアビザがほしくて行ったリトアニアでしたが、次に行く機会があるならば、杉原千畝に関連する場所を回ってみたいと思います。
ちなみに命のビザ発給から51年後の1991年、ヴィリニュスの1つの通りが「スギハラ通り」と名付けられたそうです。