【シリーズ・この人に聞く!第71回】女子サッカーの実力を世界に示した立役者 宮間あやさん

2011年は3.11大震災があり、誰もが沈みがちな気持ちを抱えていましたが、今夏の女子サッカーなでしこジャパンの大活躍は日本中を感動の嵐に巻き込みました。ゲームの要となった宮間あや選手は弱冠26歳という若さ。先日AFC(アジアサッカー連盟)年間女子最優秀選手に初選出されました!幼少期からサッカーが大好きな環境で育ち、思春期には、いったん立ち止まって考える時間を経てひたむきにプレーを続けてこられました。宮間選手にとってのサッカーとは?これまでとこれからについて、お聞きしました。

宮間 あや(みやま あや)

岡山湯郷Belle所属。1985年、千葉県生まれ。MF。2003年に代表初選出。両足から正確なパスとシュートを繰り出し、今夏のW杯では2得点を決めるなど、優勝に貢献した。09,10年には、米国の女子リーグでもプレーした。代表通算104試合に出場し、26得点。1メートル57、50キロ。

片道3時間半かけて練習に通う日々

――なでしこジャパンでのご活躍は記憶に新しく素晴らしかったです。宮間選手は幼少期の頃からサッカーを続けてこられた?

父がサッカー選手でしたので、家にサッカーボールがいつも転がっていました。サッカーチームに入ったのは小学1年生から。2歳上の姉もサッカーをしていましたが、のめりこむほどではなかったです。私は上手いとか下手とかより、人よりちょっとボールの扱いが上手くできることが楽しくてサッカーに夢中でした。ジャージ着て学校通ってサッカーやっていたので、「おまえどっちだよ?(男なの?女なの?)」みたいなこと言われていましたね(笑)。

2011.6.11 vs新潟 MFとしてなでしこジャパンでも大活躍。決勝のアメリカ戦では1ゴール1アシストを記録。

――いつ頃から「サッカー選手になる」ということを意識されたんですか?何かのインタビューで「朝起きてサッカーがしたくなくなっていたら、サッカーを辞める時だ」とお話しされていらっしゃいましたが、とても潔い心の持ち方ですね。

小さな頃は明確な目標とか思いは、なかったですね。いつの間にかサッカーをしている自分が当たり前になっていたので…女子サッカーの存在すら知らなかったですし。サッカーのプレーがうまくいかないことが続いて、夜眠る時に「あー練習するのしんどいな」と思っても、朝起きると「よし、がんばろう!」と切り替わっている。そうならなくなった時は辞める時だと思います。

――家族のサポートは不可欠だったと思います。でもお聞きしていると小中学校時代から自立されていらした。誰かに何かを言われてするのではなくて心底サッカーが好きだったのですね。毎日自分自身に課して努力されてきたことはありますか?

小中学校時代は、ただサッカーが楽しくてボールを追いかけていました。クラブチームでは男子がメインで混ざって参加していましたが当時は女子一人きり。女子だから頑張るとか、負けないぞとか、そういう気持ちは無かったです。いろいろ言われて嫌だったこともありますが、それ以上にサッカーが好きでしたし、男子の友達にも恵まれました。中2の終わり頃から、女子チームの下部組織に通うようになりました。下部組織と上のお姉さんチームと両方登録させてもらいました。中学2年生の頃からクラブチームへ入って放課後は片道3時間半かけて千葉の九十九里浜から東京の稲城のグラウンドまで通っていました。6時半からの練習が終わるのが9時過ぎ。それから帰宅するともう終電。駅に母が車で迎えに来てくれました。自分としてはサッカーがやりたくて仕方無かったし、いいスパイクも欲しかったので、最低限の約束は守りましたね。

――毎日がものすごいハードな生活で、そのなかで受験勉強もされてこられた?

自分は推薦で高校進学したので受験勉強したことがないんです。勉強はしていたほうで成績を落とさないようにしていました。片道3時間半の移動中で集中して勉強。学校では眠くてきつかったので移動中にやることが多かったです。サッカーのクラブチームへは、親に助けてもらって通わせてもらっていたので、親に言われたことくらいはやらないと。あまりにも成績が悪かったら辞めさせられてしまうかもしれない…ということがあったので。

強豪チームをやめて高校のサッカー部で男子と練習

――やっぱり中学生時代から宮間選手は心が違いますね。中2から高2までクラブチームに通われる生活を続けてこられて3年目で一旦退部されたのはなぜ?

監督や練習が厳しいという理由ではなくて、誰かを蹴落としてまで這い上がっていこうとか…そういう気持ちがなかったんです。もちろんチームスポーツで11人に入れないと闘えません。明るい環境で切磋琢磨するならいいのですが、そうでもなかったんです。誰かを蹴落としてまで、自分がポジションを取る…という気になれなかった。今はない話でしょうけれど、当時の話です。

小学1年生からサッカーチームでプレー。ボールを蹴るのが好きでたまらかなかった。

――クラブチームをお辞めになってから、一旦サッカーを離れることに?

「辞めます」と伝えた翌日から学校のサッカー部に行って男子と一緒にボールを蹴っていました。最初は休み時間に遊びでサッカーに混ぜてもらっていたのですが、「やればいいじゃん」と周りの男子に言われて、体格が違う高校生男子と一緒に部活動もするようになりました。その後、岡山湯郷Belleで本田監督から声を掛けてもらって、平日は高校の部活で男子と練習し、時々週末は岡山湯郷で合流。卒業後にこちらへ来ました。

2011.10.11 VS伊賀

――元日本代表・本田美登里監督が転身のきっかけになられたのですね。

本田監督とは私が小学5年生の頃からの長い付き合いです。当時は本田さんが岡山へ着任したばかりで、選手登録を勧めてくださいました。小学5年生の時に、ある銀行主催でアメリカへ行く親善大使をサッカー少年・少女から選ぶという企画がありまして、たまたま母が私を応募。選ばれた時のコーチが本田さんでした。本田コーチは決して優しくはありませんが、自分から相談すると答えてくれる監督です。

――高校卒業されて当たり前のように岡山へ来てサッカーを続けられたのは、そこにどんな強い思いがおありでした?

当時はプロでもなかったですし、本田さんも「他のチームでサッカーやってもいいよ」と言ってくださいました。そういう中で自分が選んだ。女子サッカーは皆日中は仕事をしながらサッカーをするのが当たり前ですから、それほど抵抗もありませんでした。仕事は日中、体育館の事務ですとか湯郷ベルの事務などを務めて、夕方から練習という一日。常に時間はありませんね。

好き嫌いが選別できる意思の強さは三つ子の魂

――宮間選手はお二人姉妹でいらして、4~5歳の頃はどんなお子さんでした?

まったく言うことをきかない子でした(笑)。そのくせに要領だけはいい。2つ上の姉がお母さんから叱られているのを見て、自分は何もしいていないとアピールをしてみせたり。幼稚園にあまり行かなかった。今で言う登園拒否で、ちょっとしたことですぐ嫌になって行かなかったので、あまり記憶がない。写真は運動会のが何枚か残っています。運動は好きでしたが、先生に怒られるのが嫌だったのでしょうね。怒られた次の日は行かない。何が何でも行かない、と。
小学校に上がってからも何回か登校拒否をしています。泣いても行かないと拒否。皆と同じことをするのも嫌でしたし、だからといってふざけたり悪いことをしたりはしないのですが、それが退屈で。先生に何かを言われるのもすごく嫌で、学校自体が嫌でした。周りの大人は困っていたと思います。ただ、そういう態度をとっていて勉強ができなかったらダメになってしまうので、勉強はしましたね。本も好きで読みました。

「なでしこの司令塔」として、次はロンドンオリンピックへ挑む。

――すごく意思が強かったんですね。怒られるようなことをしなさそうですが、言うことを聞かないエピソードって何かありますか?

例えば5時までに家に帰ってきなさいと言われても、帰らなかった。そうすると母は約束を破った罰として夕食なしにしました。家にも入れてもらえませんでしたから。謝ったら許してもらえますが、厳しいかもしれませんが、それが普通のことだと思ってきました。約束を破ったのはその通りなので反抗しないでおとなしくしていました。私の場合0歳から26歳の今まで反抗期。一つも言うことを聞きませんから(笑)、何度も繰り返します。子どもが親と同じ目線で話ができるようになったら、そしていつそれをちゃんと認めてあげるかというのも大切なことだと思います。私は学校以外の社会に触れたのがサッカーのクラブチームでしたので、もうそこへ通うようになった頃から叱られるよりも、尊重してもらっていました。

――女子サッカーのけん引役として、今サッカーをやっている子どもたちにどんなアドバイスをしていただけますか?

サッカーを嫌いにならないで続けてほしいというのが一番です。ただ、女子サッカーをやっていると言っても一生食べていけるわけではない。男子の野球やサッカーと比べたら断然差があります。4歳と2歳の姪っ子にはサッカーは勧めないです(笑)。やるとしても学校の体育でのサッカーでいいかな。女子のスポーツはどれもそうかもしれません。日本社会での女子スポーツ選手への待遇、環境は良くないです。アメリカは土壌ができているだけでなく人材が大事にされます。例えば今、私が中学校男子のサッカーチームのコーチをしますと申し出ても「いや、大丈夫です」と断られてしまうでしょう。海外では望めば、ちゃんとポストがある。日本は女子スポーツ選手が育つ土壌づくりからしていかないと何ら変わらないと思います。

――日本はそれでなくてもメチャクチャな国だということが今露呈していますからね。では、なでしこジャパンが優勝して、これからの目標とは?

優勝していることへの感謝は家族へ。何が応援の形かはわかりませんが表立って応援してくれていたわけではない。全試合を観に来れるわけでもなかったですし、来れる所には家族で旅行気分で来ていました。私のプレーを見て父はサッカーを熟知していますが、なかなか何も言いません。
今後はまず来年のロンドンオリンピック出場権も取れましたし、また選抜されるように頑張って、勝てるようにしっかり力をつけていきたい。なでしこジャパンとして国際親善試合は例年より多くなると思います。アウェーでのゲームがほとんどになるでしょうから頑張ります。

編集後記

――ありがとうございました!うちにもサッカーをしている息子がいます。中学2年生で非常に難しい思春期ですが、宮間選手はその時期から片道3時間半もかけて毎日サッカーの練習に通われていたのですね。しかも移動中が勉強時間だったという恐るべき集中力。体だけでなく心も鍛えられてしっかりしているからこそ、大好きなサッカーを大事に大事に生活の中心として続けてこられたのだな~と思います。もちろん、そうできるのはご家族の支えがあったからこそ。宮間選手のお話しを伺っているうちに、今度は「厳しいお母様」にお会いしてみたくなりました。ロンドンオリンピックでもさらなるご活躍をお祈りしています!

取材・文/マザール あべみちこ