地震被害を伝えるラジオなのかテレビなのか、バックグラウンドから音声が流れる中、海上保安庁の船が水平線を盛り上げる津波の段差目指して走っていく。津波に向かって走っていくのは津波の衝撃をできるだけ緩和して生き延びるためだ。
あの震災の時、海外メディアは日本の新聞や放送局が伝えなかったリアルな現実を伝えていた。SNSで流される情報も、メディアのそれをはるかに凌駕するリアルさを持っていた。あれから5年、どうしてもあの日のことを忘れてしまいがちになる日常があるのは否めない。だからこそ時々は、当時の映像を見ることで忘却の海に流されそうになっているものを引き戻したいと考える。しかし、5年を経た今、その情報、あるいは生の映像はむしろ辛さを倍増させて突き刺さってくる。
この動画はあの巨大津波の当日、沖合にあった海上保安庁の船が、自らの身を守るために生死を賭した行動をとった時のものだ。この映像の中では誰も死ぬことはない。ニュースにもなっていないのだから、たぶん間違いなく全員が生還したことだろう。しかし、伝わってくるのはむしろ津波の恐ろしさの根源にあるもののように思える。見たこともない巨大なものに自らが晒される恐怖――。
Ship Sails Over Tsunami
GlobalLeaks News
「興味深いことに津波の被害は沿岸部だけで沖合に出た船は津波を乗り越えることができる」とビデオの説明には記されているが、「10メートル、高さ10メートルだ」「第二波来るからな」「航海長、スピードアップして沖に出よう」「沖に行くぞ、沖に」という緊迫感に満ちた声や、舳先が空に向かって持ち上がり、次の瞬間にはジェットコースターの最高地点で景色が一転するように、突如として海に突き刺さるように船体が落ちていく映像を見ていると、とても「興味深いことに」なんて感想は持てない。
ビデオがあるということは無事だったのだと理解していても、生きるか死ぬかという緊迫感が伝わってくる。動画を見ているだけで心臓の脈拍が早まる。呼吸も早まる。そして体がしびれていくような感じがする。あの日の感覚が呼び戻される。実は忘れてなどいなかったことを体が教えてくれる。ただ――
この映像に映っていない、カメラの背後数キロの場所では、想像を絶する状況が引き起こされていたのだ。
海上保安庁の船が、その乗組員ともども、命を賭した行動をとっていた間、背後の海岸線、陸と海との境では思い描くことすら恐ろしくなる現実があったのだ。
黒い泥砂の中から虚空を掴むように伸びる腕。うつ伏せに水の中に浸かったまま動かない人。さらにもっともっと残酷な状況。
津波が到来する沖合で、生きるために極限的緊張に晒されていた映像が、見えない痛みを呼び覚ます。でもそれは、いくら思い出すのも辛いからといって、被災地の域外の人たちが「なかったこと」にしていいものではない。
この映像を見てふと思う。厳しく直接的な状況は、あるいは人の嫌悪しか呼び起こさないかもしれないかもしれない。津波の海を越えて生き延びようとした人たちの映像を見る価値はそこにあるのかもしれない。大地震と巨大津波から5年。あるいはこのような映像は、万人があの恐怖をもう一度共有できるものなのかもしれないと。
もしかしたらダメかもしれない。そんな思いがビデオの中、船長とおぼしき人が、まるで意識的に平静を装うようにして語る「何かに掴まれ」という命令。そして、水深○メートルという報告に「もっとスピードを出して沖へ」という言葉に内包された何か。
悽愴な津波被害が生じた沿岸部から数キロ沖合での生命のやりとり。その映像からカメラの背後にあった現実に思いを致すこと。あの日、直接の脅威を覚えるにはいたらなかったにしても、帰宅困難や家族と連絡がとれない不安、さらには経済破綻への危惧といった切羽詰まった感情を抱いていたことを思い出す上で、巨大津波を目前にしてただ全速で津波に直角に走るしか手だてがなかったこの映像が、人に訴える大きな力を持っているのではないか、そんな気がする。
あの大地震、あの巨大津波から5年。
ほんとうは私たちは忘れてなどいないのではないか。