3月9日の深夜、71年前のたぶん同じ時刻、今では多くの観光客を集める南の楽園、グアム島、サイパン島、テニアン島から飛び立った約300機の爆撃機に搭乗した、およそ3,000人の若い飛行兵たちが、北に向けて飛んでいました。目標は東京です。
忘れないで下さい。東京大空襲を行なったのは約300機のB-29と言われることがほとんどですが、爆撃機にはそれぞれ10人ほど、つまり合計すると3,000人の人たちが目標地点に爆弾を投下するために、高い空を飛んでいたのです。
奇襲
3,000人の彼らを乗せた航空機は、これまでの日本本土爆撃のお決まりコースだった富士山を経由するのではなく、東京に向けてまっすぐに飛行した後、いったん房総半島から引き返すようなコースをとります。
日本の防空指揮所は、敵が爆撃を断念して撤退したものと判断し、東京方面への空襲警報、つまり空からの脅威に備えるための警報を解除したといわれています。しかしこれはフェイントでした。グアムやサイパンからやってきた爆撃隊は、房総半島付近でUターンするように反転しながら、高度を下げ、それまで日本本土に対して行なわれていた爆撃の高度の3分の1から10分の1、高度1,000メートル~3,000メートルという低高度で東京上空に侵入したのです。
爆撃機の攻撃を阻止するための防空戦闘機は当時の日本にはありましたが、B-29が通常飛行する高度10,000メートルに上がるには10分以上の時間がかかる機体ばかりでした。仮にB-29が時速400キロで飛行していたとすると、防空戦闘機が防戦行動をとれる10,000メートルまで上昇する間に、相手は70キロ近くも移動していることになります。上昇力と高高度での機動に弱点があった日本の防空戦闘機は、B-29に対して常に劣勢だったと伝えられています。その上での、意表をつくような従来とは異なるルート、さらに低高度での侵入。防空戦闘機のみならず、爆撃の目標とされた東京中心部の人々の多くも、空襲警報解除の知らせに安堵し、時ならぬ寒波と嵐並みの強風を逃れるかのように、寝床に戻っていた……。そんな矢先の大空襲だったのです。
そうです。当時の東京に生活していた人々のほとんどは、解除されたはずなのに突然襲いかかって来た爆撃に、いきなり叩き起こされたという状況でした。
非対称ないのちの重さ
南の島から飛んで来た3,000の飛行兵たちが目標とした土地には、空襲警報が解除されたことで安堵して深い眠りに就いていた人たち、あるいは中学校や女学校(現在でいえば高校に当る中等教育の学校)進学のための準備をしていた人たち、連日の供用(戦時下で人員不足となった工場、とくに軍需工場などへの勤労や、防火帯を作るための民家の解体:建物疎開、その他、働き手の多くが軍隊に応召されたのを補うためのありとあらゆる産業活動への国民的協力の強制)で疲れ果てた我が子を少しでも労りたいと、食料が乏しい中で、ささやかな夕食と団らんの時を過ごした後に寝床に就いていた人たち、戦地に行った息子の無事を祈り続けていた親たち、夫を兵隊に取られ懸命に家族を守って生活していた女性たち、生まれたばかりの小さなこどもを寝かしつけていた人もいたでしょう。その日まさに子を産もうとしていた母親たちもいたでしょう。3,000の飛行兵が攻撃しようとしていた場所には、たくさんの、1人ひとりの、そして家族の命とともにあろうとした人たちがいたのです。
忘れないで下さい。東京大空襲で犠牲になったとされる10万人以上の人々。そして、多くの人間の命を奪うという使命のためにその夜、金曜日から土曜日にかけての夜空を飛行していた約3,000人の1人ひとりに、それぞれの個人としての生活があったことを。
いのちの重さに違いがなかったことを。
クラスター爆弾
東京大空襲で投下された多くは、通常の爆弾ではなく焼夷弾と呼ばれるものでした。それは現在の定義ではクラスター爆弾とされるものの1つでもあります。
細長い六角柱のような形をした焼夷弾は、38個まとめられて1つの弾体として投下されます。弾体は空中で子爆弾をはじけさせて飛散します。その際、日本家屋の屋根瓦を貫通して、住宅内部で火災を発生させるため、細長い焼夷弾の子爆弾は垂直に落下するような工夫が施されていました。
直径8センチ、長さ50センチの小爆弾には長いリボンが尾部に取り付けられ、落下姿勢を垂直に制御していたのです。このリボンに火がついて落ちてくる様子から、焼夷弾による爆撃は火の雨と表現されることがあるのです。
束ねられ、あたかも1つの爆弾のように投下されたものが、空中で無数の金属柱として落ちてくるのです。低高度からの投下とはいえ、直撃された人々は肉体が瞬時に破壊されます。作家の早乙女勝元さんほか、多くの人たちの証言によれば、逃げ惑う大勢の人々の中で、自分のすぐ前の人や両隣の人が焼夷弾の子爆弾の直撃を受け破壊されていくような、そんな地獄のような状況が繰り広げられたのだといいます。肉体を貫通し、人の命を一瞬にして奪った後、人間もろとも燃え上がり、子爆弾は周辺を焼き尽くす火焔兵器としてさらに猛威を振るうことになるのです。
効率的な破壊のためにつくり出された焼夷弾
なぜ焼夷弾の使用が行なわれることになったのか。それはこの日の東京大空襲以前から行なわれて来た、飛行機工場などの軍需工場に対するピンポイント爆撃が思うような成果を上げてこなかったからだと説明されています。また、日本の産業構造が、家内制手工業的な小規模な下請けで支えられているため、大規模なアセンブリ工場の破壊よりも、町工場を含めた人口密集地を破壊した方が効果的だったとの判断があったと言われています。でも、そんな理屈は眉毛にしっかりと唾でもつけて聞かねばならぬことなのです。
焼夷弾の効果に頼らぬ形の爆撃、つまり通常爆弾による国内の軍需工場の破壊は、東京大空襲の後も、厚木(防空戦闘機の製造拠点があった)、名古屋周辺(日本の軍需航空産業の拠点が軒を連ねていた)、阪神地区(対戦末期に海軍航空隊の主力とされた戦闘機の製造工場があった)などで壊滅的でした。
それに、人口密集地に軍需とも非軍事とも峻別しづらい町工場が存在するからといって、それが無差別爆撃を正当化する理由にならないことも明らかです。
軍民問わぬ無差別爆撃という手法を最初に運用したのは日本海軍の爆撃機による渡洋爆撃だとされますが、だからといって連合国側が行なった、爆弾投下量で数百、数千、数万倍の破壊を正当化することもまた不可能でしょう。
戦争をなくすことは…
日本の都市を効率的に破壊するために工夫され、開発された焼夷弾。その効果を最大限にするために、アメリカ本土の軍施設で実際の日本家屋を使ったテストを行ったことはよく知られています。爆撃の計画立案では、火災旋風によって7万人を超える人々が犠牲になった関東大震災での火災の状況が参考にされたという話も伝わっています。
人間が、人間を破壊するために知恵を絞り頭をひねって工夫して、殺人のための道具をつくり、殺人の効果を最大限にするための作戦を知恵を絞って立案するわけです。ふつうに考えれば殺人はもちろん悪です。しかし戦争のためということになってしまうとそれは正義になる。賞賛されるものになる。英雄にだってなってしまいます。
そのように考えた時、人間から人間性を奪い去り、人間が殺人に奉仕する状況は、なにも第二次世界大戦中に始まったことではなく、ずっと昔から人間の心性の中にあり続けてきたのではないかと思い当たってしまうのです。
私は虐殺ということばを思わずにはいられません。3月10日の夜、東京上空にあった3,000人の航空兵が何を思っていたのかを考えずにはいられません。同じ戦争で日本陸軍の将校が「新兵の訓練には捕虜を銃剣で突き殺させるのが一番」と言ったという話を想起せずにはいられません。
無知だからなのか、思いをいたす能力が欠如しているのか、それとも本性なのか。あるいはそのすべてなのか。だとしたら人間に戦争をなくすことはできるのか――。
東京大空襲では、操縦席のパイロットの顔が見えたという多くの証言があります。とするなら3000人の飛行兵たちもまた、人間を焼き殺しているということを認識していたことでしょう。あの日、東京の空と地上にあったのは、一方的に攻撃する加害者と被害者の間にある非対称な構造。ジュラルミンの機体に映る炎の色と、現実としての火炎地獄。生殺与奪の力を手にした時、それを放棄することができるかどうか。自分は死なずに相手だけを殺す。そんな権利や道具や状況を捨て去ることができるかどうか。
戦争は一重に人のこころの中から発するものということなのかもしれません。