援助の申し出とともに、後半では第五福竜丸を横須賀の米軍に引き渡せと言っている。アメリカは第五福竜丸を破壊、あるいは水没させたがっていたとも言われている。そのことを文書として残すのが次の部分だ。
[以下暗号]
右の際、アリソン大使からは、イ、福竜丸の汚染消除を米海軍に行なわしめるか、同船を海中に沈めるか 又は同船への立ち入りを防止されたい。ロ、米側の技術者にも自由に患者をみせて貰いたい。ハ、放射能を帯びた灰、着衣、木その他のインヴェントリーをとり 政府が責任をもって保管されたい。ニ、本件関係の外部への発表を審査し検閲するようにされたい。旨申出があった。
引用元:第五福竜丸展示館の展示キャプション
米軍を中心とする日本占領が解消されて2年半。アメリカが日本に要求したのは占領時代と変わらぬ高圧的なものだった。曰く、除染を米海軍に依頼するか、海に沈めるか、立入り禁止を徹底するか。患者の診察をアメリカにもさせろ。放射能を帯びた物品は日本政府がリスト化した上で厳重に保管しろ。
そして最大級の驚きなのが最後の条。第五福竜丸に関する外部への発表を、「審査し検閲」するようにしなさいと言っているのである。
自らの水爆実験で被曝した人々がいることは棚に上げ、安全保障上の問題ばかりを重視している姿勢が見て取れる。日米関係の原型がすでにここに見出せるというと言葉が過ぎるだろうか。
しかしこの時代の日本外交は、駐アメリカ日本大使館に対して、事件発生前に付近を孝行していた船舶に重ねて何らかの警告をアメリカが発していたかどうか、また現水爆実験の差異に第三国の船舶に対してどのような周知方法をとっているのか照会するようにと指示している。ここに、現在とは異なる対米姿勢の片鱗が見えるような気がする。占領時代が終わって2年半という時点だからこその気骨とでも言うべきか。
展示館にはガイガー計数管(ガイガーカウンター)も展示されている。当時この装置がどんな音を上げていたのか。第五福竜丸が係留されていた焼津港では、船からかなり離れた場所でも放射線が検出され、埠頭周辺に鉄条網が設置されたという話もある。おそらく帰港当時の線量はそうとう高かったに違いない。
第五福竜丸の被曝と核実験は関係ないとアメリカが主張し続ける中、事件から半年後、無線長の久保山愛吉さんが死亡する。
久保山さんの死を悼む涙が日本中を埋め尽くす中、原水爆に対する反発、一般市民レベルからの反対の声が日本全体で盛り上がって行くことになる。
展示された品物やパネルのひとつひとつに「ものがたり」がある。物語はすべてが複雑に絡み合い、つながっている。第五福竜丸はそのつながりの結節点。その実物が都立第五福竜丸展示館にある。
(つづく)
海中に没し続けること28年。ようやく引き揚げられ、船体とともにあってほしいとの願いから東京都に寄贈されるが、エンジンは第五福竜丸展示館の外庭に置かれている。
核実験による汚染はあるのかないのか。独立からわずか2年半、あまりにも小さな調査船「俊鶻丸(しゅんこつまる)」が、若い日本の科学者を乗せて太平洋を走り回り、核汚染の実態を解明した。当時の日本人には「俊鶻丸」の名に恥じぬほどの「骨」があった。