青い青い空と海が広がるサンゴ礁の海、世界遺産にも登録されている太平洋のビキニ環礁。ユネスコのホームページに掲載された写真によると、島にはこんなサインボードが建てられているらしい。
WELCOME
TO THE BEAUTIFUL
ISLANDS OF BIKINI
50 YEARS OF BRAVO BOMB
ボードに記された「BRAVO BOMB」とは、1954年3月1日、アメリカがこの島で行った水爆実験「ブラボー作戦」のことだ。この核実験で使用された水爆は、広島に投下された原爆の7,000倍といわれるものだった。爆発は実験地点付近の島を3つ消滅させ、海底には直径2キロ近い巨大なクレーターをつくった。しかし、水爆ブラボーの威力は事前の計算による想定をはるかに上回るもので、実験の影響を受けないとされていた離れた島の住民までが被爆するという事態を引き起こした。
実験から62年が経過した現在では除染がある程度進み、ダイビングなど観光で短期滞在する人は見られるらしいが、この島の定住者はごくわずかの軍関係者しかいない。ビキニ環礁での核実験開始から約半世紀経った時点でIAEA(国際原子力機関)は、この地域の産物に食料を依存する形での住民の帰還・移住は、年間15ミリシーベルトの実効線量を浴びることになるため推奨できないとしている。
ビキニ環礁は南太平洋を彩る宝石のように美しいが、世界遺産について解説するユネスコのホームページは「paradoxical」という強い表現が使われている。「まるで平和な地球の楽園のようなイメージに関わらず、ビキニ環礁は核の時代の幕開けを象徴するものでもある」と。
1954年3月1日に行われたブラボー実験は、日本のマグロはえ縄漁船「第五福竜丸」が被災したことでも広く知られている。第五福竜丸は危険範囲の外側で操業していたにもかかわらず船員23人の全員が被曝、大量の死の灰を浴びてしまう。そのうちの1人、無線長だった久保山愛吉さんは帰国後、全国の人々からの励ましの声と応援も虚しく、約半年後に死亡した。「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」という言葉を残して。第五福竜丸事件はヒロシマ、ナガサキに次ぐ第三の核被害、原子力災害と呼ばれている。
ユネスコによるビキニ環礁の世界遺産ページには、「第五福竜丸」という単語は登場しない。どのような理由によるものなのかは不明だが、第五福竜丸の被曝を認めようとしなかった当時のアメリカの姿勢を考えれば、政治的な何かがあったのだろうかと想像したくもなる。
第五福竜丸という言葉はないものの、ユネスコ発表には「ビキニ環礁はマーシャル諸島共和国にとって初の世界遺産である」という言葉が記されている。これこそ大きなパラドックス、いやむしろ残酷という言葉で表現すべきことではないか。世界遺産にふさわしい美しい自然があるにも関わらず、被爆国となったマーシャル諸島で最初に登録されたのが、サンゴ礁の海に深く刻まれた核実験の傷跡だというのだから。しかもそれが「核の時代の幕開けの象徴」とされているのだから。
核実験が行われた場所が世界遺産に登録されたにも関わらず、世界的には注目されることのない漁船の被爆。そして、天国のような島なのに初の世界遺産が負の遺産となってしまったマーシャル諸島。半世紀が経過しても人が住める土地にならない核実験場。マーシャル諸島共和国が被爆国であることや、核が人類と共存し得ないことをすぐに忘れてしまう人々。
それが世界というものだ、なんて嘯いてなどいられない。