震災遺構を巡る撤去か保存かという議論。それぞれの意見の背景には、たくさんの人たちの悲しみや辛さ、あるいは覚悟が反映されている。
あの日、この鉄階段を駆け上がった人たちがどうなったのか。私たちはこの階段をどんな気持ちで眺めればいいのか。
2016年、防災庁舎を海側から遠望する
高野会館の前に残る旧国道45号線。北に向かってまっすぐ走れば道はすぐに行き止まりになる。しかしそこから右に曲がるようにして、港方面への砂利道が続いている。その途中、人間の手になる高い山と山の間に防災庁舎がひっそりと立っていた。
20メートルはありそうなかさ上げされた小山を登って行くと、そこに町を見渡す展望台が築かれていた。橋の新築や道路整備、新しいまちづくりを展望するために造られた場所らしいのだが、高台に立つと自然と目が探そうとする。
防災庁舎はかさ上げの土の山の間にあって、まるで孤立するように立っている。
宮城県が管理を担当して、震災メモリアル公園の一部として保存される方針が固められたという。悲惨な記憶を残すことは、大切な人を震災で失った人たちにとって苦しみでしかないかもしれない。それでも防災庁舎は人々に語りかける力を持っている。
ここに立っているというだけで、南三陸町の防災庁舎の意味がある。
この場所で起きたこと、この町で起きたことを、できればずっと語り続けてほしい。防災庁舎を目の当たりにした人は間違いなく、未来に向けて防災を考える人になる。辛く悲しい場所ではあるけれど、日本中、世界中の人たちが命の意味を学ぶ場所として残してほしい。ご遺族や被災された町の方々に、頭を深く下げてお願いしたいと思う。
(2015年の年末から2016年1月にかけて撮影、話を伺って作成しました)