県立広島第一中学校3年生の秋田耕三さん(当時15歳)は、建物疎開作業現場で被爆しました。ふだん動員されていた己斐(こい)の工場までたどり着きましたが、かけつけた両親にみとられて死亡しました。
引用元:平和記念資料館のキャプション
手帳と、おそらく手帳を入れていた袋、そして帽子、その奥にはきちんと並べられた編み上げ靴。
なぜだか分かりませんが、耕三さんが自分で並べたように錯覚してしまいました。もちろん展示だから、資料館の方がきれいに並べられてたのでしょうが、耕三さんがこの場所にやってきて、自分の遺品をきちんと畳んで並べたように思えるのです。
耕三さんは15歳。旧制中学の3年生とのこと。旧制中学は5年間でしたが、3年生修了時からは、特別幹部候補生や予科練習生などとして軍隊に入ることができました。おそらく耕三さんの先輩たちの中にも、3年修了後に入隊し、戦場で命を散らした人が少なくなかったはず。特攻隊の主力とされたのも中学3年終了後数年の若者たちです。
ほぼ毎日を動員された工場で過ごしていただろう耕三さんが、どんな未来を思い描いていたのか、いまでは知ることはできません。ただ、きれいに並べられた遺品が、ことばにならない声で耕三さんの人となりを伝えてくれるようです。
ここにあるのは展示品ではなく遺品です。