息子へ。東北からの手紙(2015年9月19日)「元気そうに見えても体の中はボロボロなのよ」

かさ上げ工事が進む陸前高田の高台にある県立高田高校。甲子園の出場経験もある名門校のグラウンドには、震災後、仮設住宅が立ち並んでいる。

お昼前、グラウンドにチャイムのような音楽が大きく鳴り響いた。近くのスーパーの移動販売車の到着を知らせる音楽だった。トラックの荷台がそのままお店の移動販売車のまわりに、仮設住宅の人たちが集まってくる。高齢の方、とくにご婦人が多いが、中高生の姿もちらほら。

そんな移動販売車のそばで、買い物途中のご婦人と立ち話をした。

どこから来たのかという質問に答えると、「遠くから来てくれたのね、ありがとう」とか、移動販売は楽しみですねと話を振ると、「でも最近じゃ目が慣れちゃったのか、何を見ても食べたいって思えないのよね」とか、当たり障りのない話だったのだけれど、ご婦人の帽子に飾られたアクセサリーに目が行った。

わあ、それとってもおしゃれ。写真を撮ってもいいですか?

帽子に付けられていたのは布で作ったブローチ。ひまわりも椿もとても良い感じ。

「いまでもボランティアさんがやってきて、手芸やアクセサリーづくりのイベントをやってくれるけれど、これはね、仮設に住んでいる人が先生なの」

もともと手芸をやられていた方がこの仮設住宅に入居されていて、時々手芸教室を開いてくれているのだという。ボランティアさんがやってきてイベントとして体験教室を開くのもいいけれど、同じ仮設住宅に教えてくれる人がいるというのは、それまたとてもいい話。

「でしょう。まあ、同じようなものばかり作っちゃうんだけどね。たくさん作って取っておいて、お客さんとかボランティアさんとかが来た時に上げてる人もいるのよ」

そんな話を聞いて思い出したことがある。仮設住宅でクラフト系のイベント手伝っていると、1人で何個もアクセサリーを作って持っていく人がいる。他の人が1個か2個なのに、5個も6個も取って行く。「まあ、いろいろな人がいるからなあ」とちょっと残念に感じていた。でも、そうやって持っていく人は、欲張りとかではなくて、誰かにプレゼントしたいと思っていたのかもしれない。たしかに自分も仮設住宅をおじゃました際に、「これ持ってけ」と手作りのポーチとか、名前を編み込んだ名札とか、亀さんのマグネットとか、いろいろな物をいただくことがしばしばだ。たくさん作ってプレゼントするという言葉でそのことに気がついて恥ずかしくなった。

「いまでも来てくれる人たちって、ありがたいし、うれしいのよね。だって、震災から後、住んでる人がだんだん減ってるでしょ。仮設に入っても家を建てる場所がないからとか、息子の仕事の都合でとかって理由で町を出て行く人もたくさんいる。いつか帰って来るのかなと思ったりもするけど、たぶん無理よね。人は減っていくばかり」

ちょっとさみしそうにそう言うと、気持ちを切り替えるかのように笑顔になって、「ねえ、あなた陸前高田に住みなさいよ。ここはとってもいいところよ」とはしゃぐように話してくれたり。

初対面なのに立ち話でずいぶん話し込んでしまった。そして別れ際に彼女が言ったのはこんなこと。自分の手首に巻いた包帯を示しながら、

「ここの人たちってみんな元気に見えるでしょ。でもね、元気なのは外見だけ。体の中はボロボロなのよ。こないだは膝を痛めて、その後は腰をやっちゃって。そして今度は手首。どうしてだろうね。やっぱり仮設にずっといるからなのかな。だって、町の方に下りて行っても、ね」

町を見おろす高台にあるグラウンドの仮設団地から町に下りても、そこには何もない。ただかさ上げの工事現場が広がるばかり。

「町の方に下りて行ってもね、帰りは見上げるような坂道だしね。だから仮設から出なくなるのよ。スーパーも歩くと遠いし、それにこうして移動販売も来てくれるし、そして体の内側はボロボロになっていくわけなのよ」

わたしたちのことをわすれないで、と彼女は言っているようだった。

実はこの仮設で出会った人の中には、「もう来なくていいよ」と話す人もいた。「茨城とか宮城とか水害で大変だろう。ボランティアだったら急を要するところに行ってほしい。本当は自分たちだって行きたいくらいなのだけど、行きたくても行けない事情もあるからね。それにもう4年も経っているんだから、自力再建していかなきゃならないわけだ。こっちの人たちには、してもらうことに甘え過ぎているようにも感じるよ」

被災地はどんどん変わっている。それでも変わらないものもある。変わりたくても変われない事情もあるのかもしれない。いろいろな人のさまざまな思いがここにある。ここにあるのはすべて個別の話。ざっくりと掬って大雑把に話せるようなものはない。それは被災地と呼ばれない場所と同じこと。

かさ上げ工事が進む陸前高田の町を見おろす高台に、岩手県立高田高校はたっている。高校のグラウンドはあの日、逃げ込んだ多くの人たちが自分の町が津波に呑み込まれていくのを目の当たりにした場所でもある。