1954年9月23日、ひとりの日本人が死亡した。死因は放射能症。
久保山愛吉さん、享年40歳。1954年3月1日、ビキニ環礁で行われた水爆実験による死の灰を浴びた第五福竜丸の無線長だった人だ。被曝によって再生不良性貧血を患い、約半年に及ぶ治療もむなしくこの日、短い人生に幕を下ろした。
「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」
最近では社会の関心が薄れていることは否めない。静岡県焼津港所属のマグロ延縄漁船が南太平洋で行われたアメリカの核実験によって被爆したことを知らない人も少なくないかもしれない。しかし、広島、長崎で原子爆弾による多くの犠牲を余儀なくされた我が国が三たび、核爆弾による被害をこうむったのである。第五福竜丸事件は当時の社会を大きく動かした。たとえば、映画「ゴジラ」は明らかに、第五福竜丸事件を下敷きにして発案されたものだ。
日本における第三の核爆弾被害者となった久保山さんが残した言葉は、多くの人々の胸を撃った。「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」
闘病中の久保山さんには、全国から多くの手紙や千羽鶴、絵が届けられた。8月には入院中の久保山さんと家族を中継するラジオ番組も制作された。東京・夢の島の都立第五福竜丸展示館に行くと、当時の新聞記事や手紙の実物を目にすることができる。
町では「原子マグロ」という言葉が飛び交い、鮮魚が売れなくなるなど放射能に対する忌避感が全国に広まっていた。原水爆は日本国民にとって共通の敵だった。米ソ対立の刃として、国家レベルでは暗黙のうちに容認されていた核兵器に対して、反対を唱える声が市井からあがった。政治的な運動としてではなく、たとえば杉並区の主婦の勉強会から反核運動が立ち上がったように。
ひとりの日本人の死が新聞の一面に掲載される。第五福竜丸事件は、それほど大きな衝撃だったのだ。久保山さんが亡くなったことがきっかけになって、核兵器に対する反対運動はさらに大きなうねりになったと、当時を知る人から聞いたことがある。書籍などの資料を見てもそのことは伝わってくる。
しかし、忘れてはならないことがある。第五福竜丸事件、そして市民レベルでの反核のうねりと並行して、日本では核の時代が始まっていたことだ。
第五福竜丸事件は1954年3月1日。久保山さんが死去したのはその年の9月23日。同じ年の11月には、水爆実験で巨大化した怪獣という設定のゴジラ第一作が公開される。しかし翌年の11月には東京・日比谷公園で、原子力発電を推進するためにアメリカ企業の協力を受けた読売新聞によって「原子力平和利用博覧会」が開催され30万人を超える観衆を集める。原子力平和利用博覧会はその全国でも開催され、数百万人の日本人が核開発によってもたらされる未来図に熱狂した。驚くべきことに、東京での博覧会には、第五福竜丸の梶の部分なども展示されていたのだという。地方での開催地には広島も含まれていた。
好き好んで戦争を行おうという人はいないと考えて間違いない。まして、核の悲惨さをわたしたちは学んできた。核兵器に反対することは自然な感情だろう。しかし、わたしたちの父母、祖父母の世代は、核兵器に反対しつつ同時に核開発を歓迎してもいたという現実を忘れてはならない。日本の平和がアメリカの核の傘によって保たれてきたこともまた。
敗戦からの復興に向けて世の中が突き進んでいた時代に起きた大きな事件。そしてひとりの日本人の死。久保山さんが人生の最後に語りかけた言葉の意味を私たちは本当に受け止めることができるのだろうか。
9月23日は、8月6日、8月9日と並んで、わたしたちが忘れてはならない日。
1954年9月23日、ひとりの日本人が死亡した。死因は放射能症。しかし水爆実験を行ったアメリカは、第五福竜丸被害者の病因を放射能によるものとは認めていない。