武はいらぬと宣言し実行した僕らが大好きな南の島
その昔、非武の島と呼ばれた島があったのをご存知か。非武(ひぶ)とは武器というものを一切持っていないという意味。そのことを聞き及んだナポレオン・ボナパルトが苦悶したとも伝えられるその島とは――、沖縄、かつての琉球である。
イギリス人バジル・ホープという人は今から約200年前、中国派遣団に加わって琉球を訪れ、その時に見聞きした彼にとっての驚きをヨーロッパへの帰途、セントヘレナ島に幽閉されていたナポレオン・ボナパルトに語ったと伝えたところ、次のようなやり取りがあったと記録されているそうな。
ホール 琉球の人々は、武器というものを一切もっておりません。
ナポレオン 武器を持たないだと! 大砲や銃もないのか。
ホール いえ、マスケット銃さえも持っていません。
ナポレオン では、槍は。せめて、弓矢といったようなものは。
ホール いえ、それもありません。
ナポレオン しかし、武器なくして一体どうやって戦争をするのだ。
ホール 琉球の人々は戦争というものをしたことがなく、内憂外患のない平和な状態を保っております。
ナポレオン 戦争がないだって!(この間、ナポレオンは「太陽の下、戦争をやらぬ民族などあろうはずがない」といった表情を浮かべていた)
引用元:「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」明田川融著 2008年4月21日 みずず書房
このような、琉球(沖縄)が戦争を放棄した平和の島だったという言われ方については反論もある。16世紀に琉球の王、尚真王によって武具の廃棄が行われた事、薩摩の侵攻を受けた後に行われた刀狩りなど、沖縄の人々がまったく戦うための武器を手にした事がないというには無理があるだろう。しかし、明治政府が樹立した後、実質的に沖縄を併合し、日本軍の拠点を置こううと日本国が動いた際に、琉球王朝が明治政府に対して発信したのは、次のような明確な回答だった。ここには琉球が実質的には非武の地であったことが如実に主張されている。
「琉球はもとよりほんのわずかの兵士も備えず、諸国に対しては礼儀によって維持の道を立ててきた。事実、外国船の来航に対してもそのように対応してきた。いまここで、日本政府によって琉球に軍隊をおくことになると、それがかえって困難の種になりかねない。長く国同士の戦乱を経験していない島の住民がいざこざから擾乱を招く事も考えられる。だから非武によって安寧を保ってきたこの島に日本の軍をおく事はお取り下げ願いたい」
――「沖縄基地問題の歴史 非武の島、戦の島」明田川融著 2008年4月21日 みずず書房に掲載された原文から意訳
今日だから『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』
今日という日、5月末にこのページで紹介させていただいた映画『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』が、「非武」の伝統をいまに伝えているではないかと、改めて思うのだ。私たちは、同胞である沖縄の人たちをどのように胸の中で鎮めればいいのか。
機動隊として、あるいは「海猿」として、基地反対派のじいちゃんばあちゃんたちに対峙する若者たちに、じいじやばあばが言う言葉こそ「非武」の思想そのものだ。
シンガーソングライターのCoccoが言った「ギロチンか、電気イスか」――。
『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』の紹介記事に描かれた事。
だけどそれだけじゃなくって、みんな沖縄に縁があるんじゃない?
自分にだって沖縄の友達、いっぱいいる。
だけどみんなのほとんど、目を釣り上げて叫んでなんてない。
たぶん信じてくれている(ように感じる)
大好きな親友の奥さんは、沖縄の女学生とかつての大日本帝国海軍士官の間に生まれたんだと、オヤジさんが亡くなった後に教えてくれた。つらい出来事があまりにもいっぱいあって、積み重なって、そこにさらに別のものが積み重なっている。そんなに細かい事まで教えてもらったわけじゃないけど。
だけど、時間とともにね、
忘れて行くってことじゃないんだよ。ママはやっぱり忘れてないもん。
だけど、生きる事で積み重ねて行く時間ってあるんだよね。
大好きだったパパのお通夜の日に、そんなふうに言ってくれた親友の言葉が思い出される。宝石みたいな言葉だと思う。
慰霊の日。
たくさんの悲劇を、言葉として伝えて行かねばならない日だ。
話は簡単に終わるものではない。だからネジを巻く
たとえば、日本軍はよく戦った。米軍の戦車の正面の分厚い装甲を打ち破る大砲がなかったから、米軍の戦車が通り過ぎた後に、巧妙に偽装された後方の洞穴陣地から、小さな大砲で、あるいは兵士が地雷や爆雷を体に括り付け、敵戦車のキャタピラに自ら轢かれるようにして相手を走れなくして攻撃するというような、考えられないような戦法で挑んだのだと伝えられている。
しかし、そうなると米軍としては自国の兵隊の命を守るため、もしかしたら敵兵(日本兵)が潜んでいるかもしれない防空壕や古いお墓(琉球時代からの古いお墓の石室の多くが軍事上の拠点として、また住民の隠れ家として使われたそうです)を1つずつしらみ潰しに掃討していった。
掃討とはどういうことかというと、当時のアメリカ軍のカラーフィルムにも残されているが、地下壕や墓地からつながる空気穴のようなものを見つけると、そこに手榴弾やガソリン、ナパーム弾の内容物を流し込んで発火させる。そうすることで、壕の入口近くで武器を構えている日本兵らを壕の奥に追いやった上で、さらに大量のガソリン、あるいは火焔放射戦車による延焼による掃討(燃焼で酸素を消費させて壕内の抵抗勢力、もちろん民間人も含む、の生存可能性を低減し、壕内からの反攻による米兵の被害可能性を減少させた後に)、大量の爆薬で壕ごと破壊するという「残存抵抗勢力の掃討」が行われたのだという。
家はもとより、家族も親戚も失った。一家まるごと、あるいは集落のほとんどが全滅してしまい、役場の資料も失われ、名前も分からず、さらには70年後に発見されてもご遺体の所属も分からない人たちがたくさんいる。巨大な基地に占拠されて、父祖から受け継いできた土地に入る事もできない人までいる。墓参りするのまで、米軍に許された年に1度という人もいる。
そんな中での70年目。
だからこそ、おばあちゃんが声をあげざるをえない70年目。
予告編の画像もいいんだけど、リンクさせてもらった記事、リテラさんの記事をまず先に読んでから、今日という日をみんなで共有してもらえたらと思う。名記事なんで。ちゃんと伝えてくれる素晴らしい記事なので。
ネジを巻いてみて。すぐに別の大切な話が出てくる
今日、6月23日は総司令官の牛島将軍が自決したとされる日なのだけれど、この日で沖縄での戦争が終わったわけではないですよね。「慰霊の日」として、この日を境に区切られているかのように見えるけれども、決してそんなことはない。
そんなことはないというのがどういうことかというと、日本軍による散発的な戦闘が継続したということだけではなく、住民も巻き込んだ悲惨な掃討戦がずっと続いたという事です。
総司令部からの最後の総攻撃の無線を受信する施設すらなく、戦闘が続いているものと信じて亡くなっていった人、自決用に日本軍から渡された手榴弾と、洞窟の外からの火焔放射器の炎、さらには洞窟を丸ごと爆破するダイナマイトで多くの人々の命が失われて行ったのです。
のみならず、日本の本国がポツダム宣言を受諾して敗戦した後も、サンフランシスコ条約で独立を取り戻した後も、1945年6月23日の「日本軍による組織的戦闘が集結した日」以来ながく、沖縄の主権は回復する事なく、1972年に本土復帰した後にも、基地は残され続けています。
基地が残されているという抽象的な言い方では、おそらく足りないと思うのです。
少し巻いただけで、様々に語り出してくれる時計
世界中には残念ながら多種多様な武器・兵器が実在します。仮にその武器や兵器が何人の人間を殺傷する能力をもっているのかと仮に計算値を出す事は容易でしょう。それを、配備されている地域の面積で割った数値、いわば「人類殺傷能力面積分布」では、沖縄はおそらく世界の他の地域をこえる指数を示す事でしょう。
「非武の島」をそうしてしまったこと。非武の島に戻す事ができずにいること。このことはおそらく私たちの恥でしかないと思うのです。