低線量被曝の健康への影響はあるのか、それとも心配しなくてもいいのか。原発事故以降、学者や専門家がさまざまな発言をしてきました。原発作業者ならやむを得ない場合は年間250ミリシーベルトまでとか、年間20ミリシーベルト以下なら居住可能とか、基準もころころ変わって、いったい何が正しいのかよく分からなくなっています。それこそ、分かりにくくすることが目的なのではないかと勘ぐりたくなるほど。
そんな分かりにくさが、なぜ事故原発で発生するのか、分かりやすく説明してくれる書籍に出会いました。最新刊ではありませんが、引用してご紹介します。
著者はまず、イタリアで起きた大地震で、地震予知に失敗した学者が裁判で有罪判決を受けた事件から話を進めます。
地震を予知できなかった学者はなぜ有罪か
原発の事故で、医師を含め、多くの専門家が、正しくない情報を流しました。これはいわば、専門家だからこそ陥ってしまった「正しさ」の罠だったというわけです。
わかりやすい例が、先日イタリアでありました。
<多数の犠牲者が出た2009年のイタリア中部自身で、大震災の兆候がないとと判断し被害拡大につながったとして、過失致死傷罪に問われた同国防災庁付属委員会メンバーの学者ら7人の判決公判が22日、最大被災地ラクイラの地裁で開かれ、同地裁は全員に求刑の禁錮4年を上回る禁錮6年の実刑判決を言い渡した。地震予知の失敗で刑事責任が問われる世界的にも異例の事件。同地震では309人が死亡、6万人以上が被災した>(2012年10月23日共同通信)
地震予知に失敗した学者が、有罪に問われたという出来事です。で、このことに関して、コメントを求められた日本の「学者」が何と言ったかというと、たいていの人が、「学問の自由をどう考えているのだ」と立腹しました。マスコミも、「学問の自由の侵害」という論調で、各紙報じていました。
しかし私は、有罪のほうが「正しい」と思うのです。まずは、次ページの表を見てください。
引用元:「正しい」とは何か? 120ページ
表のいちばん上の段は「社会的必要性」です。正義とか命を守るとか、真理を探求するとか、こういった「命令者」というものがおります。それらが社会に必要なのです。その下の段は「学者」です。原子力関係の学者もここに入りますし、法律を作る法学者、治療法を作る医学者、それから、真理を探求する科学者ですね。この列に関しては「学問の自由」が成立します。例えば、ハンムラビ法典の「目には目を」を日本でも法律化しよう、なんて議論を法学者はしてもかまわないわけです。
引用元:「正しい」とは何か? 121ページ
法学者が法律を作るというところは明らかな誤りですが、正義や命や真理といったものを追究する学者には「学問の自由」が認められると著者は指摘しています。たしかにそうでなければ、新たな発見や知的ブレイクスルーは得られません。
続いて、専門家の使命や責任について筆者は論を進めます。
イタリアの例に話を戻しましょう。彼らが、研究者として地震を予知していたならば、別に罪に問われることはありません。それこそ「学問の自由」です。しかし、イタリアの地震学者は「学者」として「地震が来ない」と発言したのでしょうか? 報道によれば、そうではありません。彼らは、「イタリア防災庁付属委員会」の委員として、発言したのです。
もう一度、前ページの表を見てください。
彼らは、政府の機関のひとりとして――つまり「専門家」として発言したのです。人の行動に対し、権限や影響力を持っている立場、ということです。こうした立場から発言する場合は、「学問の自由」というものは適用されないのです。彼らは「専門家」ゆえに、その発言の責任を問われたのです。
引用元:「正しい」とは何か? 122ページ
専門家と呼ばれる人は、学者である場合もあるし、行政の専門官である場合もあるでしょう。職業というよりは立場と考えた方が理解しやすいかもしれません。職業は学者だが、社会的に影響力を持っている立場から発言する場合には、学者個人としての発言は許されない、ということです。ともすれば私たちは、学者と専門家をごちゃまぜにしてしまいがちですが、学者と専門家とでは、社会的に求められているものや、社会的責任が違うと著者は指摘しているのです。
原発事故から専門家が消えた瞬間
福島の原発事故で、いろいろな問題が一気に噴出しましたが、いちばんの問題は、原子力発電所に「専門家」がいない、ということではないかと私は思っています。
引用元:「正しい」とは何か? 123ページ
そんなことはない。原発には原子力工学の専門家、電気の専門家、土木工事の専門家など多くの専門家が事故の収束のために働いているではないか、と言う人も多いかもしれません。しかし、社会的に責任をもって発言するという意味での専門家となると…
放射能問題は、専門家不在が尾を引いています。例えば福島県知事は、「1年1ミリシーベルトに規制されると困る」と、政府に圧力をかけました。それに呼応するように、福島県で被曝関係に携わっている医師は、「1年100ミリシーベルトで大丈夫だ」と言いました。
ひとりの医学者が、「1年100ミリシーベルトでもOK」と言うならばいいのです。これは「学者」としての発言ですから。しかし、福島県のブレーンになっているこの医師が、これを言ってしまってはダメなのです。もし、「1年100ミリシーベルト」に従って、将来、放射能の影響が人体に出たら、この医師は、必ずこれは、過失傷害罪にならなければおかしいのです。だって、法律が「1年1ミリシーベルト」と規定しているのですから。この数値がおかしいと言うのならば、まずは法律を変えなければなりません。ソクラテスが思い出されます。
引用元:「正しい」とは何か? 123~124ページ
具体的に誰のことを指摘しているのかは明らかですが、読み進めましょう。
原発事故直後、福島第一原発の放水口の近くで採取した海水から基準値の3355倍の放射性ヨウ素が検出されました。しかし、当時の担当の経済産業省の西山英彦審議官は、「周辺住民に直ちに影響はなく、海産物も人が食べるまでには濃度が薄まる」と言い放ちました。
端的に言うと、「問題ない」と断言したわけです。これは非常に大きな問題で、この発言によって専門家としての「正しさ」を捨ててしまったということです。以後、原発事故問題は「専門家」不在で進んできました。それはいまも変わりません。
もし裁判官が、「法律にはそう書いていないけど、私が無罪と認めよう」と言ったら大問題ですよね? 審議官の発言はこれと同じです。規制値ははるかにオーバーしているけど、「問題ない」と言ってしまったのですから。
引用元:「正しい」とは何か? 124ページ
筆者は西山審議官のこの発言によって、原発事故の後、現在まで続く「社会的に責任をもった専門家」が不在になったと指摘しているようです。たしかに、専門家の発言に対する信頼性が失われ、その後、誰が何を言っても、誰のどの言葉を信じればいいのかわからなくなったという点ではそうかもしれません。敷衍して考えれば「直ちに影響はない」と言い続けた、当時の枝野幸男官房長官も同断でしょう。
専門家として発言するのは学者だけではありません。行政の専門官、直接社会に対して情報を発信するスポークスマンもまた、社会的な役割からすると専門家ということになるのです。もちろん大臣や行政組織の長の立ち位置も同様じです。
福島原発事故では、日本の法令や大臣が出す線量限度は「一般人で1年1ミリシーベルト」となっており、医学者が「私の研究では1年100ミリシーベルトまで大丈夫」と言ってもよいのですが、福島県に関係する医学者や、社会に対して直接的な責任を持つ医師は、法令や大臣通達などにより制限を受けます。そして、万が一、1年1ミリから100ミリの間の被爆者が病気になったら、その責任は発言した当人が取らなければなりません。そうしないと何のための法令や通達かがわからないからです。
引用元:「正しい」とは何か? 124ページ
法律で定められた「1年1ミリシーベルト」は変わっていないのに、附則や追加のお達しなどでなし崩し的に規制値が変更されていく。そんな状況に、多くの人は不信感を抱いています。「風評被害」と呼ばれることの原因も、ここに求めることができるでしょう。専門家としての社会的使命を放り投げた人々によって、無責任な発言が繰り返されることで、原発事故は社会全体に大きな混乱を招いています。
そしてこの状況ですが、国会で進められている安保法制に関する議論のちぐはぐさにも共通点が感じられませんか?
法律は1ミリだけれど、実情に適応するために100ミリにする。
憲法学者は違憲というが、法律を作るのは政治家だ――。
現在の日本の状況と共通項がいっぱいある。構造的にも共通するところが多い。もちろん原発事故の処理も、同じ日本の同じ社会的風土の中で進められているわけだから、それは当然なのかもしれませんが…
「正しい」とは何か?の著者は武田邦彦さん
長文を引用させていただいた『「正しい」とは何か?』は2013年3月に小学館から発行された書籍です。著者は中部大学教授の武田邦彦さん。原発事故以前から、環境問題についての研究と発言を行ってきた人です。世界ではじめて化学法によるウラン濃縮に成功し、原子力学会から表彰されたり、原子力安全委員会の専門委員を務めてきた人物でもあります。
マイ箸は環境のためにならないと発言したり、原発推進と誤解されたり、ネットでは時として「御用学者」とか「トンデモ」と評されることもある武田さんですが、論そのものは筋が通っています。「科学的思考」とはこういうことだと教えられるところの多い学者です。
これからも武田さんの論や著書を紹介しながら、環境や原発に関して考えていきたいと思いますのでお楽しみに。