3月10日、東京大空襲の朝

3月10日の朝です。70年前の今日、東京の下町の人たちが夜明けの町でどんな光景に対面することになったのでしょうか。

真夜中の0時7分頃、マリアナ諸島のサイパン島やテニアン島から飛来した300機以上のB29が、東京上空に焼夷弾の投下を始めました。焼夷弾は日本の都市を破壊するために開発されたと言われる兵器で、空中で40本ほどの子爆弾に分離、着弾するとゼリー状に加工されたガソリンなどが約10分にわたって燃え続けるようになっていました。

富士山の方角から東京に向かって次々と飛んでくるB29の爆撃は、2時間以上に及んだそうです。投下された焼夷弾は1500トン以上。この空襲で東京の約3分の1が破壊され100万人が家を失い、警察によって数えられただけで死者の数は8万人以上。おそらく10万人の人々が無惨に命を失ったと考えられています。

爆撃計画を立てるに当たって、米軍は関東大震災での火災による被害を参考にしたとも言われます。実際に3月10日の東京大空襲で焼け野原となった地域は、大正12年の大震災で燃え尽きた町の範囲とよく合致しています。効率的に東京を焼き払う作戦がワシントンのオフィスで研究されていたことに、人間に対する恐怖を覚えます。

小学校などの避難場所にすし詰め状態で避難していた人々を火災旋風が襲いいかかります。火災旋風とは、火事による上昇気流(風)によってより火災が大規模化し、燃える竜巻となる現象です。高温の空気と激しい輻射熱によって、火の手に触れなくても髪の毛が自然発火し、瞬く間に全身が火に包まれて生きたまま焼き殺されていく人々。竜巻のような強風によって、紅蓮の焔が燃え上がる夜空に吸い上げられていく子供。火から逃れようと川や池に殺到した人々は、将棋倒しになって水中に倒れ、倒れた人の上にさらに人が折り重なって溺死。水面に顔を出すことができた人々も、水上に広がる焼夷弾の焔でなぎ倒されていく。浅草方面の住民は向島に渡れば何とかなるのではと考え、向島の人たちは浅草に逃れればと考え、言問橋の上は東西双方からの大群衆で溢れ返る。川に落ちる人まで出るほどになったところを火の手が襲い、生きながら橋の上で燃え上がる大群衆。橋の袂からは消防隊が必死に橋の上の人々に放水を続けるが、やがて消防の人々も炎に包まれる。

夜明けとともに現れたのは、わずかに生き残った人たちが、「なぜ自分は生き残れたのか」と呆然と自問せずにはいられない光景だったそうです。人間は炭のように真っ黒に焼け、まるで苦悶するように手足が曲がった人々が無数に斃れている。黒焦げになった焼死体の多くは頭がい骨が割れ、頭に大きな穴が開いている。脳が沸騰するためそうなってしまうのだそうです。同じように腹部が裂けている遺体も数多く、裂けたお腹から胎児が飛び出して母子ともに炭のようになっていた人もいたと言います。川には半身だけ焼けただれた人が浮かび、その下には溺れて死んださらに多くのご遺体。あるいは火勢があまりに烈しかったために酸欠や一酸化中毒で亡くなった、まるで眠っているだけのように見える人々のご遺体も。

10万人という人の数を想像することができますか? 顔を思い浮かべることができますか? 10万人の人々に10万通りの人生があったことを理解することができますか?

地上2000メートルの高空から焼夷弾を投下したB29の搭乗員たちは、火焔の下で起きていることを想像できたのでしょうか?

空襲により焦土と化した東京。両国駅付近上空から南に向かい撮影。画面一番下が国鉄両国駅、中央右の大きなドーム状の建物は旧両国国技館(現在は両国シティコアとなっており、新国技館の位置とは異なる)、その前を左右に走るのは京葉道路、右奥が隅田川、見えている橋は手前からトラス橋時代の新大橋(一部は博物館明治村にて保存)と吊り橋時代の清洲橋。米軍撮影。ウィキメディア・コモンズより

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スペイン内乱でのゲルニカ、日中戦争での重慶爆撃、ドレスデンの無差別爆撃、日本本土空襲、広島と長崎への原爆投下。繰り返されてきた無差別爆撃で、攻撃を行った側はしばしば「戦争を早く終わらせるため」と作戦の目的を語りますが、戦争を終わらせるために無辜の人々を犠牲にすることが正当化されるとは考えられません。誰かを助けるために他の誰かを殺していいなどということ、つまり、人の命を仕分けることなど、神ならぬ人間に許されるはずもないのです。

人々の大切なものを引き裂き、破壊し尽くす無差別爆撃に対して、反対の意思を明確に示したいと考えます。そしてそもそも、無差別爆撃のような非人道的行為が行われる前提である戦争と武力行使に対しても。

悲劇は繰り返してはなりません。世界の人々が1人ひとりが、戦争に、そしていかなる武力行使にも反対であると意思表明することから、歩みを進めて行きましょう。