【遺構と記憶】かさ上げに囲まれていく南三陸の防災対策庁舎

昨年末、久しぶりに訪問した南三陸町の防災対策庁舎。玄関とは反対側からの姿です。以前は入れた庁舎前への道は閉鎖され、正面からは入れません。写真では見えにくいのですが、防災庁舎のすぐ近くまで盛土のかさ上げが迫っています。

スマホのカメラの広角レンズなので、かさ上げ造成されている場所は遠くて低く見えますが、実際には川を挟んだすぐ近くで、高さも威圧感を感じるほどです。

三陸自動車道から志津川を結ぶ国道398号線は、かさ上げされた造成地の上に仮移設されています。ということは、防災庁舎の周辺も近いうちに盛土工事が始まるということかもしれません。

かさ上げされ、国道が仮移設された造成地の高さが分かりにくいので、前日に撮影した写真を載せることにしましょう(ひどい写真なのでお蔵入りにしていたものです)。下の4枚は前日にBRT(鉄道路線の代わりに走っているJRのバス)で気仙沼方面に向かう時に撮影したものです。

防災庁舎が見えて来たので、慌てて撮った写真です。ピントも合っていないし、水平すら取れていませんがご容赦ください。

パシャ、パシャ、パシャと1秒間隔くらいで撮影したと思います。撮影データで確認すると左の写真の撮影時刻は午前8時37分。次は午前8時37分。3枚目も同じく午前8時37分でした。

そして、次の写真。場所は防災庁舎を過ぎて橋を渡り、道が大きく右にカーブしたあたりです。これも撮影時刻は同じく午前8時37分となっていますが前の写真よりは少し後だと思います。迫ってくる盛土の大きさに驚いて撮ったものです。

直前に防災庁舎を撮ろうとした写真と比べると、かさ上げがかなりの高さなのが分かります。ここからBRTのバスは造成地に付け替えられた仮舗装の道路を登っていきます。

坂道を登った造成地の上から望むと、防災庁舎は上部がわずかに見えるだけでした。一応写真も撮ったのですが、走る車中からのスマホではピントが全く合いませんでした。

南三陸町の交通規制図に、撮影した場所を順番にマル数字で書き込んで示します。

交通規制図の中に「×」印で記された通行止め箇所の先は、かつては道でつながっていた場所です。通行止めになっているのは、その場所でかさ上げ工事が進められているから。志津川地区の南東エリア、広い範囲で工事が進められています。

保存か解体か、結論は今年3月

南三陸町の防災対策庁舎を震災遺構として残すのか、解体するのかをめぐっては、長く議論が続けられてきました。地元に早期解体、保存、解体の一時延期といった様々な意見があることや、保存に要する経費が町の財源では賄いきれないこと、庁舎を保存するとかさ上げによる造成など復興の支障になることなどが議論の焦点です。2013年9月には、解体の方針が町として採択されましたが、宮城県と復興庁は遺構保存に前向きな方針を示しています。

町が解体の方針を固めた後の2013年12月、第1回宮城県震災遺構有識者会議で、防災庁舎は「震災遺構の対象となる施設」に選出されます。そして翌月、南三陸町は県との協議に同意しました。

以下、震災遺構有識者会議が作成した「震災遺構対象施設 個票」から引用します。

被災状況等
・高さ15.5mの大津波が押し寄せ,高さ12mの防災対策庁舎は鉄骨の骨組みだけが残った。(チリ地震津波の最大波高は6m)
・隣接していた行政第一庁舎,第二庁舎は流失した。
・地震観測後,町災害対策本部が設置され,職員が情報収集等に当たっていたが,大津波襲来により庁舎の屋上に避難。屋上の床上3.5mに達する大津波に襲われ,町長ら11名は生還したが,職員や住民43人が犠牲になった。
・防災無線を通じて町民に最後まで避難を呼びかけ犠牲となった女性職員については,全国的に大きく報道され,埼玉県の公立学校の道徳の教材にもなった。
・庁舎前には献花台が設置されており,多くの人が手を合わせる場となっている。

検討状況等
・災害廃棄物処理事業(がれき処理)の期限が平成25年末とされていたことや平成24年9月町議会において「早期解体」の陳情が採択されたこと,保存経費の問題等をふまえ,平成25年9月26日に町長が解体を表明した。
・平成25年11月2日,防災対策庁舎前で慰霊祭が行われた。
・平成25年11月22日「震災遺構保存に関する沿岸15市町長会議」において,町長が県有識者会議の検討対象とすることを了承。

地元の意向
・遺族や住民から,「早期解体」・「解体の一時延期」・「保存」の陳情が町と町議会に提出され,平成24年9月,町議会は「早期解体」の陳情を採択した。

その他
・庁舎周辺は公園として整備することが検討されている。

引用元:震災遺構対象施設 個票 資料3-1 | 宮城県震災遺構有識者会議

南三陸町防災対策庁舎の今後は、今年の3月に結論が出される予定とのこと。解体されるにしろ、メモリアル公園になるにしろ、破壊された志津川の町で朝日を受けて佇立する姿は、近いうちに見られなくなるということです。保存されることになったとしても、周囲はかさ上げされた新しい土地で囲まれてしまうのですから。

津波に襲われた南三陸の大地に、まるで番兵のように立つ防災対策庁舎の姿を胸にとどめていきたいと思います。