【遺構と記憶】気仙沼に打ち上げた大型漁船

ひまわりが咲く場所

まだ船があった頃、夏には船のまわりでたくさんのひまわりが咲いた。

保存か解体か、地元住民と行政の意見が分かれる中、船は陸上で3回目の夏を迎えていた。感覚として、外の人からは保存を求める声が大きかったように思う。でも、地元の人たちの解体撤去を求める気持ちは変わっていなかった。

ひまわりが咲く中に残された巨大な漁船という絵柄は、どこかこの世の物とも思えない不思議な雰囲気をかもしていた。しかし、その絵は、人々の暮らしが確かにあったその場所を、船が蹂躙していったことを証明しているようにも見える。

3年目になっても、船を見るためにやってくる人たちはたくさんいた。新聞やテレビのクルーらしき人が相変わらず少なくないことも、笑顔で記念撮影していく人がいることも変わらなかった。船の斜め前のコンビニの駐車場はいつも賑わっていた。

船が解体・撤去されて

2013年の12月、解体・撤去が完了し、工事中に周囲を覆っていたフェンスもなくなった。うっすらと雪が積もった場所には、かつて船があった痕跡は見当たらなかった。

解体された船の下からは、新たな犠牲者が発見されることはなかったという。船がなくなって、この辺りの光景は一変した。コンビニは閑散としていた。

撤去から1カ月もしないうちに、ちょうど船があった真上に早くも土木工事の丁張(工事場所の座標を示す杭)が設置されていた。道になるのか広場になるのか、その時にはわからなかった。船がなくなった後の光景の変化にも驚かされたが、約1年後に再訪してさらに驚いた。元々道路だった場所はかさ上げ工事が進められていて、道は船があった場所に付け替えられていた。コンビニは仮設商店街とともに、少し離れた場所に移設されていて、もはやそこに船があったことすら分からなくなっていた。

伝えていく責任

船が撤去されたことで、かさ上げ工事など町の復旧に向けての動きは間違いなく加速している。住宅の再建までにはまだ少し時間が掛かるかもしれないが、町は変貌し始めている。

そのことを歓迎する気持ちがある一方で、船が持っていた圧倒的な「負の存在感」が永久に失われてしまうのではないかという気がしてならない。夜だったせいもあるだろうが、船があった場所に付けられた新しい道を走っていて、その場所がどこだったのかほとんど分からなかった。

まだ船があった頃に撮った写真にたまたま写っていた子供の姿を思い出す。

黙祷している大人たちに連れられてやってきた少年が、ひとりは「ふーん」とでも言ってそうな後姿で船を見上げている。もう1枚に写った少年は、帰ろうとする家族に「もうちょっと待って」と言っているようにも見える。

この少年たちは、船のことを忘れることはないと思う。どうしてこんな場所に船があるのか、船がここに流れ着くまでの間に町でどんなことが起きたのか、この時には理解できなくても、必ずいつか思い出す。そういえば小さい頃あそこで見た船はなんだんだろうと。そう思った瞬間から、彼らは震災の記憶を受け継いでいく人になる。

しかし、そのことを物語っていた物体がなくなったいま、あの船が有していた圧倒的な巨体で語りかける力(見た瞬間に考えずにはいられなくさせる強い力)、負の遺産としての力に代わって、震災の記憶を伝えていくことは気仙沼・鹿折の地元の方々ばかりでなく、少しでもあの船に関わった私たちの責務だと思う。

記憶は風化する。風化するのを止めることはおそらく誰にもできないだろう。だったら風化する以上に伝えていけばいい。つねに新しく、付け加えていく覚悟で。