朝晩の肌寒さが深まってくると、マラソンシーズンがやってくる。もうすでに週末にになると駅伝大会のテレビ中継が行われるようになった。歴史を誇るフルマラソンの大会や、大都市の市民マラソンもいよいよこれからが本番だ。
見ても走っても楽しいマラソンなのだが、マラソン中継を見て思い出すのは2010年の東京マラソン。テレビにはずっと津波警報の情報が表示され続けていて、いつもより少し小さめ画面のマラソン中継だった。
水を差すつもりはないのだけれど
この時の津波情報は、太平洋の対岸のチリで発生した地震によるもの。チリでは津波警報の遅れもあって500人以上が犠牲になったという。これま何度も繰り返されてきたチリ地震では、津波の波が広い太平洋を渡ってくる過程で、いったん拡散した後に、日本近くで再度集中するレンズ効果が知られている。場所によっては予想以上の高い津波になることもある。実際に1960年のチリ地震では、岩手、宮城、北海道など全国で142人の犠牲者を出している。
チリ地震による津波は太平洋を渡って半日ほどかけて到達するので、地震や津波の観測網が整備された今日では、かなり早い段階から備えることができる。2010年の時にも気象庁は太平洋沿岸、そしてマラソンコースとなっていた東京湾にも津波警報を出していた。
これに対して大会の実行委員会は、津波の予想高さやコースの標高などを検討したうえで大会を実施。結果的に、津波は気象庁が予想した高さよりはるかに低く、レースは混乱もなく終了したのだが、大会開催に関して防災大臣が「警報を出しても意味がないということになると、次回の警報が信用されなくなる」と記者会見で述べたことに対して当時の都知事が「ああいうばかなことは言わない方がいい」と反論するなど場外乱闘的な論争も起こった。さらに、気象庁は津波の予想が過大だったこと、警報が長引いたことを謝罪する事態にも発展した。
マラソンを見るのも、少しだけならランニングするのも好きなので、マラソンシーズンの盛り上がりに水を差すつもりはないのだが、いまにして思えば、2010年の東京マラソンは中止した方がよかったと思う。都知事のあんな発言や、気象庁の謝罪会見などがあって津波を軽く見る風潮が広まらなかったとは言えない。
警報や注意報が出たって、どうせ数十センチとわずかな海面変動とかなんだろうという思い込みはなかっただろうか。東日本大震災の津波の映像を見た時に呆然としてしまったのには、そんな思い込みが打ち砕かれたという側面はなかっただろうか。
東京マラソンの時に発生したチリ地震は決して小さな地震ではない。マグニチュードは8.8で、発生当時は世界で記録された地震の中で5番目の規模の巨大地震だった。太平洋の真ん中にあって津波の高さが比較的低くなる傾向が見られるハワイでも約1メートルの津波を記録している。日本での津波の影響が少なかったのは、偶然と考えた方がいいくらいだ。
もしも悪い方に偶然が重なって、マラソンコースに津波が到来していたらどんなことになったことだろう。それも街を呑み込むような大津波でなくて、たとえば、埠頭をわずかに越えた水が、ほんの水溜り程度の水かさでコース近くに流れ込んできた程度のものだったとしても……。
「津波だ!」という誰かの一声だけでマラソンコース周辺は大混乱に陥っただろう。ウォーターフロントのコースでは、限られた通行可能な歩道に人々が殺到して、あっという間に修羅場の様相を呈したかもしれない。たとえ津波を実際に目にしていなくても、津波が来るかもしれないという情報は人々にインプットされている。選手も観衆も関係者も呑み込んで、とにかく逃げようと走りまどう人々の集団ができる。とくに人の流れが集中しやすい「橋」ではどんな悲惨なことが起こったことか。
関東大震災では、逃げ惑う人々が橋に集中して、将棋倒しで踏みつけになったり、橋から落下する人が続出したという。
交通規制による渋滞の車内にいた人たちが、逃げ惑う人々の様子を目にしてパニックが伝播していくことも起きたかもしれない。追突する自動車、逆走する自動車、鳴り響くクラクション、警官の笛の音、怒号、車道の真ん中に放置される自動車が続出して道路はさらに悲惨な状況になっていく。そして、そこに逃げ惑う人々の一団がまろび込むように走ってくる……。
東京マラソンを走った選手は約3万5000人。沿道の観衆は100万人を超えたという。
2010年の東京マラソンの成功は単なる結果オーライだったのではないか。
関東大震災の地震の死傷者ゼロだった伊東市宇佐美
想像したくもないマラソン会場での修羅場に比べて、好対照な出来事が91年前の関東大震災でおきていた。関東大震災というと火災や揺れによる家屋倒壊のイメージが強いが、伊豆半島東岸を中心に津波被害も発生している。これからのシーズン、ドライスーツを着込んだサーファーたちで賑わう伊豆の宇佐美海岸も、大地震の直後に大きな津波に襲われた。当時の雑誌には、概ね次のような津波到来時の様子が伝えられている。
福沢諭吉を中心に刊行された時事新報という新聞社が、関東大震災の3カ月後にまとめた「大正大震災記」の記事を、少し脚色して紹介する。
大きな揺れで浜辺の家屋が倒壊する中、集落の古老たちが海の近くに集まってきた。彼らがじっと見つめているのは波打ち際の様子だ。何人か消防団員も駆けつけてくる。陽に焼けた漁村の男たちの目の前で、ほどなく海が引きはじめた。それも普通の引き潮とは全く違って、見る間にぐんぐん波打ち際が沖の方へと後退していく。普段なら目にすることができない海底が露わになっていく。ゴツゴツとした岩にへばりついた赤や青の海藻。見たこともないような光景だ。波打ち際はあっという間に、はるか500メートル以上沖合まで後退していた。
「こりゃあ来るな」と老人の一人がつぶやく。
「間違いねえ」ともう一人が言う。
消防団の男たちはすでに集落に向けて駆け出していた。
「おおい、津波が来るどぉ。津波だ。早く裏山に逃げろぉ」
「おらたちも逃げねばな」と老人たちも集落の裏手の斜面に向かった。
潰れた家、傾いた小屋の周りに立ちすくんでいた集落の人々も、消防団員たちの叫び声を聞くやいなや、すぐさま山に走った。逃げない者など一人としていなかった。取るものも取り敢えず、集落の全員がただただ逃げた。幸い山を背にした漁村だから一歩一歩足を進めたその分だけ高い場所に避難することができた。位牌を取にとか、財布を取りにとか言って、家に戻る人もいなかった。壊れた家の中に閉じ込められた人がいなかったのも幸いだった。
関東大震災が起きた時、震源地から最も近い陸地のひとつだった伊豆半島の宇佐美集落では、135戸の家が津波に流された。しかし、1人の死傷者も出さなかった。それは、安政の大地震での津波の経験が受け継がれていたから。集落のみんなが、大きな地震の後には津波があると知っていたから。
「津波てんでんこ」という言葉こそなかっただろうが、現在の伊東市宇佐美でも、津波の恐ろしさは親から子へ、子から孫へと語り継がれてきたのだろう。東日本大震災での「釜石の奇跡」のような出来事が、伊豆の海辺の集落でもおきていたのだろう。
本来なら地震の後に海の近くに集まることは大バツだが、情報がない当時のことだから古老たちは進んで危険を冒して、津波が来るかどうかを確かめに行ったのだろう。対して21世紀の私たちは、津波情報を得ることができる。たしかに震源近くでは津波警報が出るより早く津波が到達する地域もあるが、津波がどのようなメカニズムで発生するのか、その概要くらいは知っている。
そして、もっと重要なのは、津波が沿岸に到達した時の高さや強さ、津波被害の規模や継続時間について、現在の科学では正確に予期することはできないということも知っているということだ。
本当なら、知らずにすめばその方がよかったのかもしれないと思うのが、東日本大震災の多くの犠牲と引き換えに、私たちはそれを知った。
津波を甘く見てはならない。もしも津波警報が発令されたのに小さな潮位変動しか起こらなかったとしても、それは地球や神さまに感謝しなければならないこと。津波の恐れがあることを知り、避難できたことを喜ばなければならない。
マラソン中継を見ながらちょっと思い出してほしい
チリ地震で津波警報が出されている中、海辺の地域でマラソン大会を行って、実際には津波はやって来ず、無事に大会を終えることができた2010年の東京マラソンと東日本大震災を、ひとつのペアとして考えたらどうだろう。
大会を終えた後の醜悪な言い合いや、危険を知らせる警報を出したのに謝罪に追い込まれた人たちがいたことも含めて考えてもいい。
大きな地震があったら逃げなければならない。津波の情報があったら身を守る対処をしなければならない。
そのことを思うことは、津波で犠牲になった人たちに対して、生きている私たちがしなければならない最低限のことだと思う。
画面の中、懸命に生きて走っているランナーたちの姿を見て、そう思う。