前回の神奈川県西部に続いて、伊豆半島の静岡県側の関東大震災での被害状況を、当時の雑誌から紹介します。伊豆半島東沿岸部で発生したのは、集落がまるごと山津波で海岸線まで押し出されたところを海の津波に襲われるという、根府川で起こった想像を絶する悲惨な出来事と同様です。地震の激しい揺れと津波が集落を襲い、各地で多発した山津波で集落は分断されました。もともと熱海、伊東などの観光地が連なる地域です。交通の寸断は復興に向けての重大な課題となったと91年前の記者は報告しています。
今回も時事新報社が震災3カ月後に上梓した「大正大震災記」の記事中心の紹介です。当時の雰囲気をできるだけそのままお伝えするため、言葉遣いや表記の一部を現代語に改めて、句読点等を補う程度で、ほぼ原文そのままです。
熱海:最初は小さく、二回目は数倍規模の大津波
熱海・伊東方面は静岡県では大受難地であった。熱海は最初の強震――それからおよそ5分間ばかり経ってからであった。今度は小さな津波が来たが、その津波は陸へは上がらずに引いてしまったので、町の人達は初めの地震ほどに恐怖を感じなかった。
が、その後で来た二回目の地震では家並の甍(瓦)が大きい波を打ってぶっ潰された家もあった。海岸へ近い町の人達は、この時たいていは海岸へ避難したのだった。初めの津波が小さかったからであるが、その次の津波は初めのに幾倍した大きなものであった。
初めの津波にタカを括っていたそこの人達は、66人がいち時にその大海嘯で浚われてしまった。家でさえも146戸が流失したほどの恐ろしい津波だった。海の中へ持ってかれたのは、浜町と東町だった。浜町はその町の半分だけが残ったにすぎなかった。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
熱海では地震の揺れも津波も2回にわたって襲ってきたことが記されています。恐ろしいのは最初の津波の小ささに油断して、浜辺に避難していた人々を2度目の大きな津波が襲ったという話です。
一瞬のうちに人々が流され、町の半分しか残らなかったと記されている浜町は、銀座通りに並行して海から山に向かう通りです。東町はサンビーチの西、現在の東海岸町交差点付。熱海に遊びに行ったことのある方なら、きっと歩いたことがあるはずの場所。
津波はしれたものであったが、熱海に続いた伊豆山は八分どおりは全滅した。有名な仙人風呂も倒壊した。
伊豆山トンネルではちょうど27名の坑夫が作業をしていた時であった。その27名は一旦生き埋めにされたのだが、そのうちの1人は先年丹那トンネルで遭難した坑夫だったので、即死したのは一人きりであった。
伊豆山神社の鳥居が倒れて惨死した者もあった。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
修験道の時代からの歴史を誇る伊豆山でも、海岸近くにあった千人風呂で有名な相模屋旅館(江戸時代から続く老舗旅館とのこと)は倒壊、近くのトンネル工事現場では27人が生き埋めになったけれど、そのうちの1人が丹那トンネルの崩壊事故からの生存者だったので、1名の即死者を除く26人は助かったという意味でしょうか。
伊東:流れ込んだ漁船が町を破壊する
伊東町の津波はその被害はむしろ熱海以上の残忍さだった。
伊東町の津波も最初の初めの地震からは10分位しか間隔がなかった。津波はその高さが丈余ぐらいなものだったが、海岸にあった三四十艘の漁船はまるで木の葉のように町中へと打ち揚げられてしまったのである。
そして伊東町目抜きの場所の大通りに続いた両側の家並を潮に浸した津波は、その漁船を、酒癖の悪い酔っ払いみたように揉みたくって、人家へ打突けたのだから堪ったものではない。何十トンという発動機漁船に打ち壊された家も1軒や2軒ではなかった。
伊東警察署や浄ヶ池の付近や、またはそちこちの田畑の中なぞにも二三艘ぐらいずつ漁船が浮かんでいたというのも、今にして思えばうそのような話なのであるが、その時の伊東町は町の半分は津波を被ってしまったのだった。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
東日本大震災の被災直後の東北の町の様子が思い浮かびます。きっと、ほとんど同じような状況だったのでしょう。町なかを渦巻く津波に乗って、あちこちの建物に衝突しては破壊していく漁船。「酒癖の悪い酔っ払い」という表現の良し悪しは措いて、荒れ狂う津波の姿が見えるようです。
文中にある警察署は現在の丘の上の場所ではなく、おそらくもっと海辺近くにあったのでしょう。浄ヶ池というのは温泉水が混ざる池で、淡水魚に加えて南方系の海水魚も生息していたとのこと。大正11年には天然記念物に指定されましたが、現在は姿を消しているとのことです。
宇佐美の奇跡:流失家屋135。しかし死傷者ゼロの村
同じように津波に襲われて、死傷者が皆無だったという大正版の「奇跡」ともいえるのが宇佐美です。
伊東についでは、宇佐美村の損害は大きかった。流失家屋が135戸というのである。ところが、ここからは1人も死傷は出さなかった。
この村には安政地震の苦い経験があったからであった。村の人達は、地震の後ではきまって津波がやって来ることを知っていたのである。
最初の一揺れが来た時に、村の老人達は不気味な海面を眺め入った。見るといままで白い頭を振り立てて渚に打ち寄せていた波が、四五町ももっと沖の方へと引いてしまった。
消防夫はその次の瞬間、異常な出来事――大海嘯が襲来するということを村中へ触れ廻った。すると村中の人達はすべてをうっちゃって、村の背後にある丘陵へと駆け登ったのである。
この村だけは一人も死傷者がなかったのは、そうした津波が来た時は村中が留守になっていたからである。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
村の古老が見つめる中、海が海岸線から四五百メートルも引いていく。「大津波が来るぞ」と集落に触れて回る消防団。安政の大地震の被害の記憶を留めていた人々は、何もかもうっちゃって高台に走って逃げた――。
津波てんでんこ、釜石の奇跡の大正版と言いたくなる話です。時代は変わっても、地震災害から命を守る基本は変わらないことを教えてくれます。
その他、伊豆各地の被害概況
下田町とその付近もその被害は津波であったが、しかも熱海・伊東のようにそれが深酷ではなかった。
三島署管内も損害額は巨きかったが、熱海・伊東よりは被害程度は軽かった。
そのうちでは大仁署管内は最も軽微なものであった。
が、震源地に近く海嘯と山嘯(山津波)のあった伊豆半島は、温泉国と漁場だけに、その被害がいっそう惨たらしく映るのである。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
この先に道路が寸断されたという記事が続くので、記者は伊東から先、南伊豆方面や中伊豆、三島方面までは取材に入れなかったのかもしれません。
それでも、伊豆は観光と漁業が生業の地域だから地震による被害は致命的だと記しています。
熱海では御用邸が避難所に
熱海の建築物としては御用邸は墻壁(レンガや石などで築かれた塀)の一部が倒壊して屋根瓦が剥がされた。天皇皇后両陛下には畏くも九月十二日に熱海と伊東町へ山縣侍従を御差遣になられた。
御用邸は避難民の収容所に充てられて、その建物は傷病者や避難民の困憊者を収容した。炊き出しもした。温泉旅館のうちでは二階建ての隠居玉屋というのと、ほかにやはり絵画へ寄った旅館が二三軒流失した。このほか熱海には際立った大きい建物の被害はないが、
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
伊東では今も続く老舗を含むほとんどの旅館が倒壊
伊東町は富士銀行、伊東水力電気会社、沼津区裁判所伊東出張所などの建物が倒壊した。東京湾汽船会社玖須美川汽船取扱所はその上に流失した。
泉屋、暖香園、松川、高橋、伊東、そういう一流どころの温泉旅館を初め、温泉旅館という温泉旅館がほとんど全部倒壊したと言ってもいいくらいな話である。
子爵伊藤祐四郎氏の別荘も倒壊してしまった。警察署も、役場も、郵便局も、学校も壁が落ちたり屋根瓦が引ん剥かれて、いまにもぶっ倒れそうであった。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
暖香園、松川館、伊東園。いずれも現存する老舗旅館です。
被災した小学校
田方郡には学校の倒壊が二校、破損が三十四校あった。
罹災児童が2万1210人。
賀茂郡は破損が七校で罹災児童4932人が数えられた。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
ここまで熱海・伊東を中心とした報告だったのが、なぜか中伊豆・南伊豆での小学校の被害について掲載されています。伊豆半島の東海岸では、町全体が大きく破壊されたところが多く、学校の被害が記者の目に留まらなかったということかもしれません。
交通途絶。鉄道も道路も寸断される
交通機関の被害は、これも伊豆東日本大震災海岸は箱根、小山、御殿場方面とともに甚大なものであった。東海道線(注:当時は丹那トンネル開通前で、現在の御殿場線まわりだった)は駿河山北間のトンネルが崩壊したので物資の輸送は道路によるほかはなかったが、
国道のうちでも静岡下田線、伊東大仁線、三島熱海線、伊東熱海線、熱海小田原線は亀裂と崩壊とで輸送は不可能であった。
ことに熱海小田原線は山崩れがして、この街道は昔の面影はない。旅人が紅葉を楽しむというような風流は、今日では味わえなくなってしまった。
伊東熱海線にしても網代から宇佐美へ通う改良道路なぞも見る影はない。この街道の橋梁はまるで架かってはいない。完全な橋というのは二つか三つしかない。
多賀村に入ってみても、橋はどこにだって見ることはできなかった。熱海から多賀へと導いている約一里の道路は、決壊箇所が5箇所、山崩れが10箇所、赤い山の刃だがまざまざと震害の跡をいまもムキ出している。
熱海から大場(注:大正大震災記では「おおば」と振り仮名があるが現地名の読みは「だいば」)へと越す軽井沢峠、宇佐美から網代へと下る峠、それも二つながら五六個所くらいずつは崩壊した。大人から伊東へ行く峠も伊東へ寄った方が五六個所ばかり大崩落をしている。
電信電話が不通になったことは言うまでもない。全滅した伊東にしても熱海にしてもそうである。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
これだけズタズタに寸断されると、海辺沿いの移動もできず、山を越えて修善寺や三島方面へ向かうこともできず、それぞれの集落が孤立状態に陥っていたということになります。記者さんは多賀までは入ったようですが、村々の人々の食料など物資の輸送はどうなっていたのか、より詳しい資料を探してみたいと思います。
観光の町だから交通の復旧が焦眉の課題
熱海では問題となった世界の名間欠泉は地震以来湧出するようになったし、他の温泉も湧出量を増加したということであり、伊東では新温泉がそこらあたりに湧き出でているということである。
が、温泉国にとっては交通機関が途絶するということが何よりもおそろしいことであった。で、熱海の温泉業者はもう疾うに三島熱海線の道路開鑿を県へ陳情している。
引用元:「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
大きな被害を蒙った伊豆地方ですが、この地で生き続けていこうとする被災した人々にとっては、生活の再建こそが急務です。漁師さんたちについての記載はありませんが、観光については新しい温泉が湧き出したというニュースも報告しています。
ただ、熱海の間欠泉については、かつてはイエローストーン、グレートガイザーとともに世界の三大名間欠泉と並び称されていたものが、関東大震災以降噴出が途絶え、昭和になってからは人工的な間欠泉として整備されたものだそうです。記者さんが訪れた時には、一時的に噴出が持ち直していたのかもしれませんが。
最終ブロックの、「観光地では交通途絶こそが恐ろしい。だから地元の人達は道路建設をすでに陳情していた」というくだり、時代を越えて共通することだと感じました。平成の東北の大震災では、観光の再興には長い時間が掛かっていますが。