明治時代、静岡県の南伊豆地域は陸の孤島のようであったと言われている。南伊豆へは、下田と三島を結んでいた下田街道があったものの、途中には険しい山がそびえ、峠越えでは時に命を落とすこともあったという。その陸の孤島状態を解消するために造られたのが「天城山隧道」、いわゆる「旧天城トンネル」である。川端康成の小説、伊豆の踊子のほか、いくつもの文学作品に登場する隧道である。先日、その歴史的トンネルを訪れてみた。
海上交通の要所であった南伊豆・下田
天城山隧道を訪れる際には、トンネル開通以前の南伊豆の状況を知っておきたい。
南伊豆は地理的に三方を海に囲まれ、天城連山が壁のようにそびえている。江戸時代、伊豆半島南部への主な街道は2つあったと言われている。ひとつは三島と下田を結ぶ天城越えで有名な下田街道。そしてもうひとつは、伊豆半島東海岸沿いにつくられた、小田原と下田を結ぶ東浦路(ひがしうらじ)である。東浦路は下田街道に比べると歩きやすかったそうだが、それでもかなり険しい山道であったと言われている。江戸時代、南伊豆への陸路は時に命を落とす恐れもあった難路であった。その一方、南伊豆は大阪と江戸を結ぶ海上交通の要所に位置していたために、下田が港町として栄えた。数多くの船が下田に立ち寄り、海の関所として幕府の奉行所も置かれていた。
しかし、明治の半ばに東海道線が開通すると、物資の輸送手段として鉄道も利用されるようになり、南伊豆の海上交通は衰退していったそうである。そのため南伊豆は陸の孤島状態となり、下田街道を安全かつ容易に通行することができる天城山隧道の建設が死活問題となっていた。
建設費用は国家予算の約0.2%
そのような状況下、下田の県議である矢田部強一郎の尽力もあり、天城峠にトンネルが造られることになった。話によると、矢田部県議が議会の演台に短刀を突き立てて「天城山隧道の建設に反対する者があれば、この場で刺し違える」と決死の覚悟で訴えたことにより、隧道の建設が決まったそうである。
天城山隧道は建設費10万3016円を投じ、4年以上の歳月と12名の尊い犠牲の上に1905年に完成した。当時としてはこの金額は莫大なものであった。財務省の公開資料によると、トンネルが完成した1905年の日本の国の歳入は約5億3千万円である。天城山隧道は実に国家予算の約0.2%にあたる巨費を投じた大工事であった。
天城山隧道について
現在、国道414号線の天城峠にあるトンネルは、1970年に作られた新天城トンネルである。明治時代に造られた天城山隧道へいく場合、新天城トンネルの手前(北側の入口からは300mほど。南側の入り口からは500mほど)にある脇道へ入って、未舗装の山道をのぼって行くと、石で作られた重厚な天城山隧道が見えてくる。
天城山隧道の両端の入り口付近には、5~6台ほどの駐車スペースがあるので、車を停めて隧道を歩いて通り抜けることもできる。トンネル北側の駐車スペースには、トイレと休憩のためのあずまやもある。トンネル内には所々に灯りが設置されているので、薄暗いものの懐中電灯がなくても歩くことができる。
トンネルの長さは約450m。10分ほどで通りぬけることができる。
トンネル内部の壁面は切り出された岩が隙間なく組まれており、当時の技術の高さがわかる。これは「切り石巻工法」と呼ばれる、石を積み上げていく工法で作られたという。ちなみに使われている石は、伊豆の国市大仁町吉田地区のものが使われている。
天城山隧道は、道路のトンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されている。石造りのものとしては国内最大長の隧道で、文学などの舞台としても数多く登場する南伊豆の名所である。下田街道を通って南伊豆へ行く際には、ぜひこの貴重な歴史的建造物にも立ち寄ってみるといいかもしれない。
天城山隧道(旧天城トンネル)
参考WEBサイト
その他、天城山隧道に設置されていた説明板も参考にしています。
Text & Photo:sKenji