東日本大震災から、今日でまる3年が経ちました。
■石巻に住んでいた同級生
震災当時石巻に単身赴任していた同級生(当日はたまたま出張で東京にいました)は復興支援に尽力する日々を過ごしたあと東北からかなり遠い土地へ転勤となりましたが、震災3年を目前にした3月9日の日曜日、石巻を訪れて顔なじみの方たちと会ったそうです。
石巻を離れた彼は時折facebookで現在の単身赴任先での近況を知らせてくれるのですが、定期的に石巻への思いもつづります。3月9日に彼は自分がかつて過ごした地域の写真をアップしてくれました。津波にすべてを流されてしまい、まだ何もありませんでした。しかし彼の
「自分の人生は復興と共にあります」「復興は自分のことです」
ということばをとても頼もしく思いました。
■郡山・白河のおじちゃんおばちゃんたち
既に亡くなっている妻の両親はともに福島県出身で、父方の郡山、母方の白河にはおじちゃんおばちゃんが余裕で10人以上(!)元気でいるため、毎年のように遊びに行っていました。震災後はなんとなく足が遠のいていましたが、昨年は春に郡山、秋には白河へ行ってきました。
地元のローカルニュースや地元紙には福島原発に関する報道が必ずあります。おじちゃんおばちゃんが野菜について話すときにはしばしば「線量」という言葉が。うちの親せきに該当者はいませんが、その知り合いのひとの話題になると「避難」「補償」という言葉も出てきます。
山や畑を持っていて、野菜も味噌も手作りしている(どれも自家用)おじちゃんおばちゃん。それを振る舞うのが大好きなおじちゃんおばちゃんにとって「作物・食べ物の安全」は絶対に守りたいものなのです。
そんな話題の時には引き締まるおじちゃんおばちゃんの表情もやがて元通りの笑顔に。あと2時間もすれば晩御飯なのにテーブルには「これでもか」というぐらい漬物が並び、おにぎりもあり、さらに「さっき急いでついたんだ」というお餅は握りこぶし大の「あんころ餅」となってどーんと置かれています。
「本番」の晩御飯も「これは…絶対食べきれないぞ(苦笑)」という量のごちそうが次々と振る舞われ、次の日の朝ごはんでもまた大量の漬物と具だくさんのお味噌汁がたっぷり供されます。それを大勢でガハハハと笑いながら食べます。声が大きいです。
帰る日には「持ってけ」と言ってビニール袋に包まれた餅のかたまりと、同じぐらいの「あんこ」のかたまりを2つずつ渡されました。おばちゃん、20キロぐらいあるじゃん(笑)。わたしにとっては「これぞ福島!」という感じでうれしくなってしまいます。県内全域が「これぞ福島!」に戻る日を願ってやみません。
自分のことはひとのこと。ひとのことは自分のこと。
わたしにはたまたま被災地の方とつながっているひとが身近にいることで東日本大震災のことを思い出さない日はほとんどありません。しかし毎日の暮らしのうえで自分なりに困っていることもあって、そのことで精いっぱいになってしまう日もあります。
「困る」というのはいわゆる「ふつう」に暮らせない、多くのほかのひとたちと同じように過ごせない場面のことです。心身ともにしんどいこともあるので、時には
「こんなちょっとしたことも不自由に感じるなんて、“ふつうのひと”は想像もできないんだろうなあ」
と愚痴ったり、ひどいときには「これが困るひとがいるってこと、”ふつう”だと想像つかないのかなあ!」なんて怒りたくなってしまうこともあります。
しかし!
わたしが愚痴をぶつけている「想像のつかないひと」というのは「自分が困る状況なんて想像したこともなかった自分自身」でもあるのです。
当事者になってみて初めて知る困りごと、そうなる前は想像もできない困りごとがたくさんあります。日常のちょっとした場面で、誰にもそんな経験があるでしょう。
だからこそ「こんなことでも困るひとがいるのかもしれない」と想像を働かせることができるひとになりたい。それに気づけたら、まわりのひとにも知らせてあげたい。それが困りごとを解決する糸口になるかもしれない。そんな風に思うのです。
こどもたちに教える「ひとの身になって考えてみよう」ということばそのものですね。その気持ちを忘れないことが、被災した方々のことを忘れないことにもつながると思うのです。つい自分を優先してしまう未熟者ですが、毎日のいろんな場面で「誰かが困っているかもしれない」と想像するクセをつけたい。それが震災から4年目に入るいま思うことです。