震災を経験して(2)「女川第二小学校のがんばり坂」

まるで二小のためにつくられた曲!

「お母さん!今日ね校内放送で”学校坂道”が流れたんだよ!曲が始まった瞬間に凜ちゃんとバっと顔を見合わせちゃったよ」

学校坂道とは子供が通っていた女川第二小学校で、校歌の次によく歌われていた曲です。
私はてっきり女川二小のためにつくられた曲だとばかりおもっていました。
それほど歌詞が女川二小にピッタリだったから!
震災後に調べてみたら「みんなのうた」などでも流れていた全国区の歌のようです。

娘は震災後、石巻の小学校へ転校しました。お友達の凜ちゃんもその一人。
女川で何度も歌っていた懐かしい曲が流れて嬉しかったのでしょう。
まるでイントロ当てクイズのように、出だしで瞬時に二人が顔を見合わせた様子が目に浮かびます。

女川第二小学校は海抜30メートルほどある高台に建っていて、女川駅の横にある民家の裏道の細い通学路をくぐり抜けると、ドーンとかなり急こう配な坂道が姿を現します。
通称「がんばり坂」
我が家は外れの地区にあったので、子供たちにとって2キロ歩いて疲れた先に待ち構えていた「がんばり坂」は最後の難関でした。

それでも子供たちは笑顔で登ります。なかには駆け上がる子も。
がんばり坂を登れば楽しい小学校に到着です。

がんばり坂にまでガレキが・・・

東日本大震災で女川町は7割の家が全壊。山に囲まれ、わずかな平らな土地に家々が密集して建っており、そのほとんどは低い場所にありました。
唯一高い場所にあったのが小学校、中学校そして総合体育館。
町民が次々と車や徒歩で学校へ避難し、一時は2,000人もの人で埋め尽くされました。

仕事で町外に居た私は「女川は津波で壊滅したらしい」という噂を聞きました。
「学校に居れば大丈夫!でも下校していたら?・・・終わりだ。どこにも逃げ場が無い。3年生の娘はたしか6時間授業、でも1年生の息子は5時間だ・・・下校しているかもしれない・・・。」
黄色の帽子をかぶった一年生の集団が、がんばり坂をかけ下りてないことだけを祈りました。

2日後の日曜日、女川へなんとかたどり着き、重機でガレキを押しよけて作られたグチャグチャの道を歩き、大きな漁船の脇をくぐり抜けると目の前にがんばり坂が現れました。
「ここにまでガレキが・・・」がんばり坂には流れ着いた車や木材が。
それは小学校の校門の数メートル手前まで続いていました。

しかし、3月11日金曜日、その日は翌週予定されていた卒業式の全校練習があり、下校時間が遅くなっていたのです!それを知って全身の力が抜けました。

でも、がんばり坂を登り登校するのは、その日の朝が最後となってしまいました。

一生わすれない、学校坂道

「ねえ、学校坂道まだ歌える?」
「もちろん!歌えるよ!」
たまに子供たちに呼びかけては親子で大合唱している「学校坂道」
「あれ?2番なんだっけ?」
そっか、そういえば息子が歌った期間は1年にも満たないのか・・・。

学校坂道

1.
この坂道のぼったら
ぼくの学校があります
ジャングルジムにのぼれば海が
まっさおに見えます
青空に抱かれた
ぼくの自慢の学校
この坂道をぼくは毎朝
風をきってかけます

2.
この坂道おりるのは
空が赤く燃える頃
丘を渡る澄んだ空気
うしろに長い影
ともだちの笑顔も
夕焼けに染まります
この坂道をぼくはあしたも
口笛とのぼります

(作詞・作曲 西口ようこ)

引用元:「学校坂道」

この歌詞、このメロディ。
聞くと泣けて仕方ない、大切な女川二小の思い出の曲。

通学路には海水と一緒に水揚げされた魚がよく落ちてたね。
ウミネコにふんを落されて大騒ぎして帰ってきたこともあったね。
がんばり坂をかけ下りて、勢いつきすぎてころんじゃったこともあったね。
女川二小へ続く通学路、あの日の朝に行ったっきり。
再び同じ道をたどって家へ帰ることは、永遠に出来なくなってしまった。

今は大規模なかさ上げ工事が急ピッチで行われている女川の中心部。
かさ上げをすれば、急な坂道もきっと無くなのだろう。

がんばり坂は無くなっても、子供たちは一生わすれない。
がんばり坂を登ること、それはきっと人生の歩みにとても良く似ていて、それぞれの歩幅で、高さで、走って登ってみたり、時にはゆっくりゆっくり歩みを進めたり。それぞれの歩き方で辿り着く場所は違ってくる。

子供たちが登り切ったその先に見える景色が、ジャングルジムのてっぺんから見えた美しい女川湾のように、どこまでも青く澄みきったキラキラと輝く美しいものでありますように。

那須野公美