1999年9月30日(木曜日)JCO臨界事故
茨城県東海村の株式会社ジェー・シー・オー(JCO)が、高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料製造中に臨界事故を起こす。
この事故で中性子線を浴びた作業員2名が死亡、1名が重傷を負ったほか、周辺住民を含む667名が被曝した。
放射性物質は一定のペースで分裂して中性子線などの放射線を出している。濃縮した放射性物質が一定の分量集められると、ある原子から飛び出した中性子が隣の原子にぶつかって、ぶつけられた原子が分裂して、そこから飛び出した中性子がまたとなりの原子にぶつかって、という連鎖反応が起こる。これが臨界のひとつの形、核爆弾における臨界だ。
放射性物質の濃度が低くても、ある一定量集められたところに「水」などの減速材として働く物質があると臨界が起こりうる。濃度が低いと原子と原子が遠くなるので、分裂で飛び出した中性子はスピードが速すぎて隣の原子に取り込まれにくい。しかし水などでスピードが落ちることで、中性子が取り込まれやすくなる(=核分裂が起きやすくなる)。その結果引き起こされる連鎖反応が、原子炉の中でおこっている臨界だ。
JCOの臨界事故は、後者の状態、つまり原子炉と同じ状況が原子炉ではない場所、住宅地の中にあるごく一般的な事業所で引き起こされたものだった。
このような臨界事故が発生しないよう、国の管理規定に沿った燃料加工のマニュアルがあったが、JCOではこれとは別の裏マニュアルで作業が行われていたとされる。ウラン溶液の撹拌は専用の装置を使うよう定められていたにもかかわらず、JCOの現場ではステンレス製のバケツを使い、核反応が起こりやすい形状で、しかも周りに冷却水のジャケットが装備された容器で行われた。その方が作業しやすいからという理由からだと伝えられる。
臨界事故が発生したのは午前10時35分頃。JOCから科学技術庁に臨界事故の可能性が報告され、12時30分には東海村による屋内退避の広報がはじまった。事故現場から半径350mの住民に避難要請、半径500mの住民に避難勧告、10km以内の住民、約31万人には屋内退避と換気装置停止の呼びかけが行われた。現場周辺の道路や鉄道も封鎖された。
臨界状態は放置された状態だったが、JCO職員らが何度か現場への突入を行い、冷却水を抜き、中性子をつかまえる性質のあるホウ酸の投入により、臨界から20時間後にようやく中性子線量が検出限界以下になった。
事故直後に搬送された3名の作業員のうち1人は16~20シーベルト以上の被曝と推定された。この男性は、東大病院で治療を受け続けたが、放射線で染色体が破壊されたため、造血細胞や皮膚の再生が行われず、多臓器不全により被爆から83日目の12月21日に亡くなった。
推定で6~10シーベルトを被曝した男性は、一時は退院の期待がもてるまで回復したものの、多臓器不全により2000年4月27日死亡している。
致死線量
放射線を被ばくしたことにより死亡に至る放射線量。100%致死線量(LD100)は、被ばくした人の100%が死亡するとされている線量で、全身被ばくの場合で7~10シーベルト(Sv)程度、50%致死線量(LD50)は、約50%が死亡するとされている線量で、全身被ばくの場合で3~5シーベルト(Sv)程度である。
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JCO事故当時、親会社の住友金属鉱山の広報関連の仕事に関わっていた。相手方の担当者は、明るく気さくかつ聡明で、自分の会社が社会的にどのようなポジションに位置していて、次に何をすべきかを理解している、要するに有能な人だった。その上かなりのハンサムだった。財閥系グループの本流企業のHQに務める典型的な人物だった。
事故後に報じられた「放射性物質をバケツで移し替える」といった作業が行われていた組織とは、あまりにもイメージが隔絶していた。親会社・子会社とはいえ別の企業だから、その文化をどうこうするのは適切ではないし、まして限られた人物の印象から何かを語ることは危険だろう。
しかし、実際に体を動かして作業している現場と、管理する側との間にある深い断絶を感じずにはいられない。もしかしたら(しなくても)、それは全体に共通する問題なのかもしれない。
そしてまた、原子力というものについての理解が、それを専門に扱う場所にあってさえないがしろにされていた事実に震撼せずにはいられない。
「原子力 正しい理解で豊かなくらし」
無関係とはいえ、双葉駅前通りに掲げられた看板の標語を思い起こした。
歴史の中の9月30日
◆1571年 織田信長による比叡山焼き討ち
一宇も残さず(ひとつの建物も残さず)、一時のうちに雲霞のごとく焼き払ったというように「信長公記」に記される。
◆1862年 プロイセン首相ビスマルクが「鉄血演説」
予算委員会で軍事予算追加を求めて演説。ドイツがプロイセンに求めているのは力であり、ドイツ統一は多数決ではなく鉄(武器)と血(兵士)によってのみ実現されるといった内容の演説を行う。
◆1863年 八月十八日の政変
尊王攘夷派の京都での跋扈、同年5月10日の長州一藩による攘夷決行、三条実美ら急進派公家の勢力増強に対して、諸藩による京都の警固から長州藩を締め出すことによって実行されたクーデタ。長州藩は都を追放され、要職を罷免された三条実美ら公家7人とともに長州に下った(七卿落ち)。
◆1943年 御前会議において「絶対国防圏」が定められる
前年のミッドウェイ海戦で主力空母を失い、伸びきった戦線の先端ではガダルカナル島から撤退するなど、連合軍の巻き返しに防戦一方に立たされつつあった昭和18年のこの日開かれた御前会議で、
「万難ヲ排シ概ネ昭和十九年中期ヲ目途トシ米英ノ進攻ニ対応スヘキ戦略態勢ヲ確立シツツ随時敵ノ反攻戦力ヲ捕促破摧ス」とする方針のもと、千島、小笠原、内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域を、絶対に確保し続ける要域と指定した。
翌1944年6月、サイパン島陥落などマリアナ諸島を失い、絶対国防圏が破られたのを受けて、東条英機内閣は7月、総辞職に追い込まれた。
◆1946年 GHQにより三井本社、三菱本社、安田保善社が解散(財閥解体)
「侵略戦争遂行の経済的基盤」となったとし、戦前の経済体制の清算が進められた。
◆1954年 世界初の原子力潜水艦、米海軍ノーチラス号が就役
◆1960年 台東体育館で馬場正平(ジャイアント馬場)と猪木寛至(アントニオ猪木)が同日デビュー。馬場は勝利、猪木は敗戦でのデビュー。
◆1968年 都営トロリーバスが廃止
架線から電気を受け路面を走る(無軌條電車)という簡便さから注目を集めたトロリーバスだが、1952年の営業開始から16年での廃止となった。
◆1978年 京都市電が廃止
日本最初の電気鉄道としてスタートした京都市電が83年の歴史に終止符を打った。
◆1991年 「フジ三太郎」連載
1965年4月1日から朝日新聞夕刊に、1979年1月1日から連載終了の1991年9月30日まで朝刊に連載されたサトウサンペイによる4コマ漫画。
◆2001年 高橋尚子が2時間20分の壁を破る
ベルリンマラソンで女性として初めて2時間20分の壁を破る。ケニアのテグラ・ロルーペの記録を1分近く縮める2時間19分46秒の世界新記録(当時)で優勝。
◆2009年 スマトラ島沖地震
スマトラ島パダン西北西60kmの海底で起きたマグニチュード7.5の地震。1100人以上が犠牲になったとされる。2004年スマトラ島沖地震(マグニチュード9.1)の広い意味での関連地震との指摘もある。
この日が誕生日
1924年 トルーマン・カポーティ
アメリカの小説家。「ティファニーで朝食を」、「冷血」など
1931年 アンジー・ディキンソン
アメリカの女優。「リオ・ブラボー」、「殺しのドレス」。個人的には「ビッグ・バッド・ママ」と「ビッグ・バッド・ママ 2」
1932年 五木寛之
小説家。「さらばモスクワ愚連隊」、「青春の門」、「大河の一滴」
1932年 石原慎太郎
小説家、政治家
1950年 内田樹(たつる)
思想家、武道家。神戸女学院大学名誉教授。「日本辺境論」、「最終講義」、「日本の文脈」(中沢新一との共著)
1983年 潮田玲子
バドミントン選手
この日、亡くなった人々
420年 聖ヒエロニムス
神学者。聖書の翻訳を進め、ベツレヘムで没す。
1626年 ヌルハチ
清の初代皇帝。女真(満州)族の愛新覚羅氏出身で、後金を建て明から独立する。
1913年 ルドルフ・ディーゼル
ドイツの技術者、発明家。ディーゼルエンジンの生みの親。
1978年 山岡荘八
小説家。戦時中は従軍作家として活動。「海底戦記」、「徳川家康」
1985年 チャールズ・リヒター
アメリカの地震学者。地震の大きさを比較するためのリヒタースケール(マグニチュード)を考案。
1997年 藤田信雄
旧日本海軍軍人。潜水艦伊25に搭載した零式小型水偵でアメリカ本土オレゴン州の山林を空襲(1942年。日本の航空機による唯一のアメリカ本土爆撃)