宮城県東松島市の宮戸島、本当に素敵な島だった。
何が素敵だって?
「素晴らしい景色!」
と普通なら答えるところだけど、今回はそれだけではなかった。もちろん、島の景色や島から見える松島の島々も魅力的だった。しかし、それ以上にこの島が素敵だと感じさせてくれたのは、3人のお年寄りだった。
宮戸島を訪れた当初の目的は、奥松島縄文村。
しかし、宮戸島があまりにも良かったので、急遽、宮戸島の魅力について記事を書くことに予定を変更した。
僕にはどうしても撮りたい写真があった。それは、松島湾に浮かぶ島々の光景。
どこに行けば島々が見えるのか、地図を見る。
宮戸島の西端に行けば、見ることができるのではないだろうか。ただ、スケジュールの都合上、時間はあまりなかった。西へ行けるところまで行き、写真を撮ろうと思った。
縄文村から西に向かって歩き始める。
すると、柱に屋根がついただけの小屋のような建物から、人の話し声が聞こえてきた。小屋に壁はないのだが、手前に塀があって、誰が話しているのかよくわからない。ただ、どうやらお年寄りの声に間違いはなかった。
なんだかのんびりとした、その会話の雰囲気にどうしても興味が引かれてしまった。
島の西端への道を聞いてみようと思い、話し声がする小屋に行く。
塀を回り、覗いてみると、3人のおじいちゃん、おばあちゃん達がビールケースの椅子に腰掛けて、お菓子を食べながらお茶をしていた。
どうやら、休憩中のようだった。
一見して、みなさん、気さくで優しそうな方々に思えた。声をかけてみる。
「あのー、すいません。島の西側に行きたいのですが、どう行けばいいのでしょうか?松島湾に浮かぶ島々の写真をとりたいのですが。」と尋ねると
「今は、地震で道が悪くなっていて行くのは大変だ。島を見るなら、大高森がいい。」とおじいちゃんが教えてくれた。
「それはどこにあるんですか。」
と聞いたのだが、その返事を聞く前に、人の良さそうなおばあちゃんが、
「まあ、これを食べなさい。」と言って、お菓子を差し出してくれる。一度、遠慮すると、
「いいから、食べなさい。」と再度勧めてくれる。
お言葉に甘えていただくことにする。
すると、今、コーヒーも入れるからと言って、少し控え目で優しそうなもう一人のおばあちゃんが準備をし始めてくれた。
いきなり道を聞いたどこの誰だかしらない、見ず知らずの私にまるで友人が来たかのように暖かいもてなしをして下さる。恐縮しつつも、心が暖かくなる。
「うーーん。人もいい。なんて素敵な島なんだろう。」
さらにこの島が好きになった。
お菓子のフルコース
3人とも宮戸島の地元の方で、縄文村の近くに住んでいる。
元気のいいおじいちゃんは、野田さん。お菓子を勧めてくれた、人の良さそうなおばあちゃんは、谷里(※)さんそして、少し控えめで優しそうなおばあちゃんは尾形さん。
谷里さんからいただいたものを食べてみる。
「これ、美味しいですね。小豆ですか?」
「小豆の甘納豆です。」
谷里さんが教えてくれる。
「小豆甘納豆っていうんだぞ。」
おじいちゃんがさらに念を押してくれる。
小豆甘納豆以外にもクッキー、アンパンなど次から次へといろいろ勧めて下さる。時間も気になったが、おじいちゃん達とのこの出会いに魅力を感じ、もう少し話をしてから、走って島の写真を撮りに行くことにした。
おじいちゃんに島のビューポイントに関して話を聞く。大高森、相当良さそうな場所だった。島の西端ではなく、大高森から写真を撮った方が良さそうだと思った。
おじいちゃんと話をしていると谷里さんが
「はい、これ食べなさい、美味しいですから。」
と透明の容器を差し出して勧めてくれる。
「キュウリですか?」
「そうです。もみあげですからね。」と教えてくれた。するとおじいちゃんが、
「いなかづけつって、キュウリだよ、おいしいんだよ。 だれもかれもこう、うまくこんなふうにつけられないんだ。このおばさんだけうまいんだ。」
「ハッハッハッ、ハッハッハッ。」と陽気で豪快な笑い声をあげる。
おじいちゃんの言葉と笑い声が、キュウリの美味しさを物語っていた。つまんでいただいてみると、素朴なおばあちゃんの味がする。美味かった。
おじいちゃんは、牡蠣を作っているらしく、牡蠣養殖の話をしてくれる。
僕はいただいた小豆甘納豆やキュウリを食べながら聞いている。手の中の甘納豆がなくなると、
「はい、もっと食べなさい」
と、谷里さんが、さらに手のひらにのせてくれた。
「こんなにいっぱいもらって悪いですから。」と言うと
「いいから、いいから。」とおじいちゃんが笑顔で言う。
「ほんとすいません。何から何まで。」と恐縮すると、
「(気にしないで)また思い出したら、(島に)来て下さい。」
と谷里さんが嬉しいことを言ってくれる。おじいちゃんは、「同じ日本人なんだから(気にするな)」と言ってくれた。
宮戸島を襲った地震と津波
おじいちゃんの話を聞いていると、尾形さんが、キティちゃんのかわいらしいコップにコーヒーを入れて差し出してくれる。谷里さんは
「砂糖、クリープもあるから。あまーいものを食べて。ほら、疲れがとれっから。」と言って砂糖の袋を差し出してくれる。
尾形さんが、これに座れと重そうな太い丸太を転がして持ってきてくれようとしていた。僕はあわてて丸太を受け取りに行き、転がして移動し、丸太に座る。
丸太に腰掛けると、
「縄文杉の腰掛けだ。」とおじいちゃんが言う。
「みんな津波でながされてこれだけが残った。」と尾形さんが説明してくれた。
丸太の腰掛けをきっかけに、話の中心は震災当時のことへと移った。
「昔とは何もかも変わってしまった。あの津波さえこなければ・・・。生活豊かで、何の心配もなかった。あの津波で、世の中、みな変わってしまった。」
とおじいちゃんが絞り出すような声で言った。
「一番大きく変わったことは何ですか?」聞いてみる。
「人がいなくなった。みんな仮設さ入っている。」
3人とも今でこそ、自宅に戻ってきてはいるが避難生活を送っていたとのことだった。とくに谷里さんは学校で25日間、避難生活を送っていたらしい。
「避難生活もな・・・。二度とああいうことは嫌だ。布団も何もない。体育館や教室で毛布だけ敷いて寝る。ああいうことはもうたくさん・・・」
谷里さんが辛い当時ことを振り返りながら語ってくれた。
「一番何が大変でしたか?」と聞いていいのか迷ったが尋ねてみた。
「一番大変なのは水。何よりも水。」と谷里さん
「あと水と電気ね。」尾形さんも言う。
水道が使用できるようになったのは6月上旬とのことだった。それまでの三ヶ月間、水が来なかったという。その間、自衛隊が給水車で水を配ってくれたとのことだった。橋は壊れて島は孤立状態だったらしい。
「自衛隊の方々はありがたかったな。水だけでなく、朝昼晩、ご飯をこしらえてくれるんだもの。お風呂も自衛隊だった。」
大変だった当時の記憶と共に、自衛隊への感謝を何度も口にしていた。
「私の場合は体育館の避難生活でね。ほんと、寒くてね。朝早くからみんな体育館のトイレにくるのよ。トイレも結構待つのよ。まーず、寒くて。」と尾形さんが言うと、
「寒かったよ。あの時は、雪降ってんだもの。」おじいちゃんも辛そうに言う。
その他にも、いろいろと震災当時の話をして下さった。もっと話をしていたかったのだが、時間はあっという間に過ぎていて、気が付くと、行かなければならない時間になっていた。とても名残惜しかったが、僕は、心から御礼を言い、
「今度、来る時はおじいちゃんの牡蠣養殖のお手伝いをしにきます。」と約束をして別れた。
宮戸島の昼休み。短い時間だったが、素敵なひと時だった。おじいちゃん達の言葉が頭に残っている。
「まずまず大変なことです。まんだ、まんだ、まんだ、復旧、復興には時間かかるんじゃないかな。いつになることやら。」
この思いは、被災者の方、多くに共通していることだと取材を通して感じている。被災地から離れた、私たちは記憶が薄れ、震災が過去のものように感じ始めているかもしれないが、被災地では、変わらず支援を必要としている人が大勢いる。
食べ物をいろいろともらい、恐縮していた僕におじいちゃんは言っていた。「(気にするな)同じ日本人なんだから。」と。
<終わり>
(※)仮名です
宮戸島
Text & Photo:sKenji