今からおよそ10年前、僕は西日本にあるA高校の野球部に所属する野球少年でした。全国に数多ある野球部と同じように練習し、同じように甲子園を目指していましたが、少しだけ、他校とは違う特徴がありました。母校は明治時代創部の伝統校、部員数は毎年100人を超すというマンモス野球部だったのです。このシリーズでは、そんな僕のマンモス野球部ライフを紹介していきたいと思います。
甲子園出場校が関西地方に集結する。
関西地方の都市部にあるA高校。甲子園球場へは比較的近い距離にある学校でした。
甲子園の季節になると、全国から各都道府県の代表校がやってきて、関西地方の各府県の宿舎に宿泊します。彼らは、開会3~4日前から本大会で負けるまで、関西地方に長期滞在するのです。
もちろん、彼らは本大会までの間、宿舎付近の学校やグラウンドを借りて練習を行うのですが、我がA高校はそんな甲子園出場校の練習試合の相手になることが多々ありました。県内外に幅広い人脈を持つP監督が、どこからかそういう試合を決めてくるのです。また、県内では「甲子園まであと1~2歩」というところで負け続けるA高校は、甲子園出場校にとってちょうど良い肩慣らしの相手だったようです。
「胸を借りるつもりで、思い切って行こう!」そのつもりが・・・。
春の選抜大会直前のある日、A高校は、甲子園に出場する中国地方のY高校と試合をすることになりました。Y高校は、その年の中国地方では圧倒的な強さで勝ち進んだ学校です。
A高校としては、練習試合とは言え、甲子園に出る学校と試合ができる貴重な機会です。良い試合が出来れば、来たる夏の甲子園予選に向けて大きな自信になります。
「胸を借りるつもりで、思い切って行こう!」
P監督が檄を飛ばします。ところが・・・。
試合が始まって1時間30分が経過したころ、試合を優位に進めていたのは我がA高校でした。それも、5回を終えた時点でなんと10対0。予選大会ならA高校のコールド勝ちが成立してしまうほどのワンサイドゲームです。
どうやら、中国地方では圧倒的な存在感を見せていたY高校のエースが、極度のスランプに陥っているようなのです。変化球にキレはなく、直球も打ちごろの棒球。我がA高校の4番打者・I君に至っては、すでに2本のホームランを打っていました。
この練習試合はY高校にとって、甲子園に向けた最後の調整の場。最初は気合にみなぎっていたY高校も、すっかり元気がなくなっていました。
結局、試合は我がA高校が14対2で勝ちました。練習試合とは言え、A高校にとっては大きな自信となった気がします。逆にY高校にとっては、甲子園での本番前に不安の残る大敗でしょう。
最後まで調子の上がらなかったY高校
そして、選抜大会が始まり、甲子園に出場したY高校は案の定、1回戦であっさり負けてしまいました。最後まで本調子を取り戻せなかったのでしょうか、それともこれが実力だったのでしょうか・・・。
この結果を見たP監督が
「なんだか、悪いことをしたなぁ」
と、つぶやいたのが印象的でした。
我がA高校が所属する県は、予選大会で100校以上がひしめき合う激戦区です。一方、Y高校が所属する県は、50校未満で予選を行います。
「もしA高校がY高校の県にあれば、余裕で甲子園に行けたのに」
「校数の少ない県の方が、甲子園に出やすいから羨ましいな」
そんな、正直な感想もちらほら聞こえました。その是非はともかく、何とも生々しい話だなと、今にして思います。