今からおよそ10年前、僕は西日本にあるA高校の野球部に所属する野球少年でした。全国に数多ある野球部と同じように練習し、同じように甲子園を目指していましたが、少しだけ、他校とは違う特徴がありました。母校は明治時代創部の伝統校、部員数は毎年100人を超すというマンモス野球部だったのです。このシリーズでは、そんな僕のマンモス野球部ライフを紹介していきたいと思います。
残留練習
120名超の大所帯の野球部では、はっきり言って部員を持て余していました。何事においても優先的に扱われるのは野球の上手な順番です。土日に行われる練習試合は120名を1~5チームに分け、それぞれ試合先に出向きますが、まれに試合に呼ばれない部員が30~40名ほど発生し、彼らは練習をすることになっていました。要は、試合がある日に学校に残留し、通常の練習メニューをこなすのです。
とある日を例に挙げると、こんな日がありました。
○月×日【1軍+α】、【2軍A】、【2軍B】、【残留練習】 この場合、まず【1軍】メンバーとして、ほぼ固定の20名弱が選ばれます。それに加え、1軍候補、いわゆる下で調子を上げている部員がサプライズで選出されることもありました。【2軍A】、【2軍B】とは、1軍ではないものの、試合には呼ばれるメンバーです。A、Bと表記しましたが、特に明確な違いはなく、試合先の学校に近い場所に住んでいるメンバーを中心に振り分けられます。それぞれ30名弱です。
残留練習となってしまうのは主に下級生。僕は入部早々スコアラーに任命されたこともあり、試合においては必要とされる存在でした。そのため、残留練習の経験はほとんどありませんが、それでも、入部したての頃は残留練習となってしまうことも何回かありました。しかし、実力主義の世界とはシビアなものです。怪我さえなければ1軍レベルの先輩や、実力的に劣る先輩も、残留練習メンバーに回されていました。
「呼ばれる」「呼ばれない」
週末、金曜日になると、土日の練習試合のメンバー発表が行われていましたが、そこでの独特な緊張感は結構なものだったと思います。
特に1年生のうちは残留練習に回ることも多く、前向きに貴重な練習の機会と考えられていました。同級生でも試合に呼ばれるのは一部のレギュラー候補のみ。むしろエラそうな先輩が少ない環境は楽しいものです。基本的に練習時間は短い野球部ですので、練習が終われば、残って自主練をしたり、そのままカラオケに行ったり、各々好きなように過ごしていました。
2年生になると、試合に呼ばれるメンバーの方が多くなります。ここで残留練習になってしまうと、少し焦ってしまうかもしれません。血気盛んな奴は、
「なんで俺がザンレン(残留練習)なんじゃ!」と、叫んでいることもありました。ただ、1軍に所属しながら出場機会の少なかった僕からすれば、ボールに触れて長く身体を動かせるだけ羨ましくもあります。それに、文字通り試合に「呼ばれた」だけで、出場機会の無いまま土日を終えてしまう部員もいました。
このあたりの立場も人それぞれ。大所帯ならではの厳しさでしたが、今となっては良い思い出です。
「ザンレンの星」
高校野球生活は、2年半という本当に短い期間です。あくまで個人的な見解ですが、高校野球の実力については、才能の占める割合が大きいと思います。レギュラーメンバーは基本的に不動で、大きく入れ替わることなんてまずありえませんでした。
しかし、残留練習を積み重ねていたメンバーが、たまたま訪れたチャンスをきっかけに、時の人となることはありました。印象的だったのは、基本的に残留練習に振り分けられることが多かった同級生のK君。彼は足が異常に速く、とある試合で
4打数4安打、その全てが足で稼いだ内野安打。
・・・という日がありました。それが偶然監督の眼に留まり、突如として、彼の足の速さが注目をあびるようになったのです。こうして徐々に出場機会を増やしたK君。僕らが3年生となった最後の大会では、ついに18人枠の1軍メンバーに選ばれたのです!
K君は監督に「A高校の秘密兵器」と呼ばれ、走塁のスペシャリストとして期待を寄せられました。総合的な上手さでなく、まさに一芸に秀でた選手です。監督からは「ここ一番で出るぞ!」と常に言われていました。
ただ、僕らの最後の大会は、結果的には勝つ時はボロ勝ちだったうえ、最後は「ここ一番」と呼べる展開もなく負けてしまい、無念のベスト8。結局18人中ただ1人、K君の出番は最後までなく、「秘密兵器が秘密のまま終わってしまった」と自虐的に笑っていました。
それでも彼は、残留練習組から1軍に選ばれた、まさに「ザンレンの星」。他の1軍メンバー以上に応援されていたのが印象的でした。