石巻日日新聞が東日本大震災の翌日から6日間にわたって発行し続けた手書きの壁新聞は、海外のメディアからも注目され、震災直後の4月にはアメリカ・ワシントンDCの報道博物館「ニュージアム」に収蔵・展示されました。残りの現物も「震災を風化させない活動」の一環として、さまざまな場所で展示されてきましたが、2012年3月10日からはフランス国立ギメ東洋美術館で展示されます。電気も水も輪転機も失われ、記者自身も被災者となった中で発行を続けた手書きの壁新聞は、世界の人々に何を訴えかけるのでしょうか。
手書きの壁新聞が被災地に届けた「安心感」
地震と津波に見舞われた被災地では、数日間にわたって携帯電話もメールも通じず、もちろんインターネットの接続もできませんでした。かろうじて情報入手が可能だったのは、被災をまぬがれた車のカーナビで見るワンセグTVくらい。しかし、テレビに映し出されていたのは、ヘリコプターから撮影された津波被害の様子など、あまりにも遠い目線からの情報ばかりでした。極限状態で夜を迎えた被災地の人々の間には、孤立感と絶望感が広がりつつあったと言います。
「震災の直後にはデマとしか言いようのない情報も飛び交っていました。自分も直接聞きましたが、どこで殺人事件が起きたと、まるで見てきたかのような口コミがリアルに語られていたのです」
石巻日日新聞の近江弘一さんは、情報が錯綜していた震災直後の様子をそう話してくれました。
近江さんはそんな状況に強い危機感を抱いたと言います。正確な情報がなければ、震災を生き延びた人がさらなる危険にさらされるかもしれない。「どんな形でもいいから正確な情報を伝えなければならない」――。そんな記者たちの「使命感」がストレートに結実したのが壁新聞だったのです。
輪転機が動かない状況で、また社員自身が被災した状況にも関わらず、可能な限りの取材活動を続け、手書きの壁新聞を発行し続けた石巻日日新聞スタッフたち。彼らをつき動かしていた使命感とは、愛する地域に広がっていた混乱や絶望を何とかしたいという切実な思いだったのでしょう。
3月12日に発行された壁新聞第1号は、すべての文字を数えても500字に満たないものでした。しかし、原稿用紙換算1枚強の手書き新聞は、被災地に蔓延しつつあったデマを振り払い、未来に向けての希望を取り戻すための道しるべとして、大きな意義を持ったのです。
避難所や街角へ新聞を配りに行ったスタッフは、貼り出される新聞を覗き込みながら「待っていたよ」と声をかけてくれる多くの人々に出迎えられたそうです。たとえ活字ではなくても、信頼できる情報がそこにあるということ、そして正確な情報を伝えようとする報道機関が生きているということが、被災地の人々に安心感を届けたのです。
フランス国立ギメ東洋美術館での展覧会を企画したズーム・ジャポン(ZOOM Japon)誌/エスパス・ジャポン(Espace Japon)誌では、非常時における報道メディアのあり方を問い直す機会にしたいとのコメントを発表しています。遠く離れた国のメディアが「壁新聞の意義」を正しく見据えているのです。
情報が失われた混乱の中、被災地に貼り出された手書きの壁新聞。その情景を思い浮かべさえすれば、日本語が読めない海外の人々にも石巻日日新聞の「使命」はしっかり伝わるに違いありません。赤インクで書かれた「正確な情報で行動を!」というメッセージは、万国共通のものなのです。 石巻日日新聞社社長・近江弘一さんの講演採録記事はこちらです。
編集後記
石巻日日新聞の「6枚の壁新聞」が日テレでドラマ化、「3.11その日、石巻で何が起きたのか~6枚の壁新聞~」として、2012年3月6日に放映されます。社長の近江弘一さん役を演じるのは、近江さんの高校の先輩に当たる中村雅俊さんです。近江さんは「照れくさい。しかも先輩だから演技指導なんてできなかった」と笑っていました。自らも被災した石巻日日新聞の記者・社員たちが震災直後の町で何に立ち向かったのか。興味をお持ちの方はぜひご覧ください。さらに、3月11日TBS系で放送される「情熱大陸」も「石巻日日新聞」の密着ドキュメンタリーです。こちらもぜひご覧ください。(2012年2月16日取材)
取材・構成:井上良太(JP21) 写真協力:石巻日日新聞社