漁業復活への道 石巻市狐崎の牡蠣

[プロローグ]
すっきりした食味なのに、口の中にふわっと滋味が広がる牡蠣の絶品。地元の人々の間で評価が高い石巻・狐崎の牡蠣。津波で大きな被害を受けた狐崎で、牡蠣の養殖に心を注ぐ管野清也さんの物語。海底のダイビング調査の船に乗せてもらって狐崎の海の上で聞きました。 (2012年11月30日)

高校卒業して2年くらい電気工事関係の仕事をしてたんだ。やっぱ、いろいろ興味があったんだな、町場の仕事っていうものに。

この浜で生まれて、子どもの頃からずっと浜の仕事を手伝ってきた。自分は長男だから跡をとるように言われてね。ほんとに小さい頃からいろいろやってたよ。むいた牡蠣の殻の片付けをやらされて、ちょっと大きくなってからは牡蠣をむいたりもするし。休みっていうと家の仕事の手伝いだったな。

高校は宮水(宮城県立水産高校)だよ。なのに電気工事の仕事に就職するんだから、よっぽど町に興味があったんだな。でも、離れてみて、この海の魅力がわかってきた。魅力がわかったら戻ることにしたんだ。

そりゃ戻るにあたっては覚悟を決めたよ。父さんに使われることになるんだからな。仕事が面白くなったのは、任せてもらえるようになってからだな。

[写真] 獲れたてむきむきぷりぷりの狐崎の牡蠣。これでも身入りは少ない方

牡鹿半島の先端にほど近い石巻市狐崎は牡蠣の浜だ。ここで獲れる牡蠣はおいしい宮城県産の牡蠣の中でも別格。管野さんはじめ浜の人たちも自信を持っている。しかし、残念ながら知名度の高さはこれまで地元限定だった。その上、津波によって養殖施設のほとんどを失った。漁業を離れた人も少なくない。もちろん漁港も大きな被害を受けた。宮城県による沿岸拠点漁港にも選ばれなかった。

しかし震災から約1年後、狐崎の牡蠣は復活した。数こそ少なかったが身の入りの良い美味しい牡蠣が収獲できた。獲れた牡蠣は「被災地の牡蠣」として東京方面にも少数ながら出回った。評価は高かった。たとえば海の民の青木久幸さんのような人たちが、狐崎の牡蠣の伝道師役として各地をPRして回った。そしていま、狐崎の牡蠣は管野さんたち生産者の手によって、新たなステージに立とうとしている。

養殖いかだのそばで牡蠣養殖の面白さを語る管野さん。右は写真家の平井慶祐さん

「この浜を震災前以上にしていくのが自分たちの仕事。牡蠣なら牡蠣で以前からの流通経路があったわけだけど、獲って出荷するだけではだんだん魅力がなくなっていた。市場を通すと消費者の手元に届くまでの時間がかかるからどうしても鮮度が落ちる。本当に美味い牡蠣を美味しい状態で届けるためには、自分たちで加工して、販売まで含めてやっていかないと」

管野さんたちは浜でグループをつくって牡蠣の直販事業を立ち上げた。とはいえ、牡蠣の販売はそう簡単なことではない。水揚げ後の加工だけでもざっとこんな工程がある。牡蠣の殻に着いた海藻やムール貝などの付着物を掃除して、穴あきなどの不良牡蠣を除去した後、高圧洗浄してさらに浄化水槽で除菌。その上ではじめてむき身加工を行う。すべての工程で細菌を抑える衛生管理が要求される。

「大変といえば大変だよ。でも、消費者に直接つながる販売をやっていくには、自分たちで加工まで手掛けるしかない。浜の将来とかいろいろ考えると、いまやるしかない。だから “ やろう! ” ってことになったんだ」

牡蠣養殖の話になるととどまるところを知らないのだ

管野さんは牡蠣生産のプロだ。しかし流通に関しては経験がない。消費者との接点もほとんどなかった。震災前ならあえて未知の分野に挑戦することはなかったかもしれない。しかし、浜が大きな被害を受けたことが前へ向かう後押しになった。

「こないだは東京のオイスターバーに行ってきたよ。いいものを出せば使ってもらえる手応えは感じたね」

現在では加工場も稼働し、管野さんたちの牡蠣はネット通販でも買えるようになった(サイトはこちら)。でも、まだ狐崎の復活は始まったばかりだ。

管野さんには、狐崎の海の魅力に気づき覚悟を持って浜に帰ってきた時の強い思いがある。なんてったって船の上で話し始めた最初がその話だったんだから。

「狐崎」が美味しい牡蠣の代名詞になる日は遠くない。そう確信した一日だった。

●TEXT+PHOTO:井上良太(株式会社ジェーピーツーワン)