【遺構と記憶】東日本大震災・復興支援リポート 「最後に残った1隻――気仙沼」

2012年10月24日の「第18共徳丸」

気仙沼の魚市場からクルマで走ること5分ほど。かつて鹿折唐桑駅があった近くに「第18共徳丸」はある。

鹿折(ししおり)地区は津波と津波火災で文字通り壊滅的な被害を受けた。ほとんどの瓦礫が撤去された町には、建物の基礎だけが残っている。

第18共徳丸は、何もなくなった鹿折の広い空の下にある。

数字だけでは実感できないもの

第18共徳丸の大きさは長さ60メートル、重さ330トンだそうだ。

でも数字だけでは実感できない。ふだん海に浸かっている船体下部まで露わだから、なおのこと巨大さが迫ってくる。

写真の人と比べても、330トンの船の巨大さは実感がわかない。

3月11日の津波によって、気仙沼市では100トン以上の船17隻が陸に打ち上げられたという。

「打ち上げられた」というのは表現が生易し過ぎるだろう。地元の人の話はこんな感じだ。

「船は、橋を壊すこともなく、津波に浮かんだ状態でそのまま町の中に入って来た。そして、押し波と引き波、さらに渦のような複雑な流れに翻弄されるように町の中を動き回った。動き回りながら、そこにある建物という建物をすべてなぎ倒し、破壊していった・・」

津波から数時間経った後も、船は浮かんでいたという。浮かんでいるということは、流されよう次第でさらに町を破壊し続けるということだ。山に逃げた人たちは、船が自分たちの町を破壊するというあり得ない光景を見つめるしかなかったのだ。

気仙沼全体で17隻、鹿折地区だけで7~8隻の船のうち、第18共徳丸以外はすべて解体されるか海に戻されるかした。

最後の1隻となった第18共徳丸の下には、クルマ、建物の残骸などが押しつぶされたままの状態だ。さらに船体には火災でペンキが焼け焦げた跡も残っている。

巨大津波による被害と津波火災。気仙沼を襲った災厄を象徴する存在となった第18共徳丸には、震災遺構として保存するという話も出ている。しかし、地元の人は複雑だ。自分たちの町を破壊した巨大な船を見て、

「いい思いをする人なんか、この町にはいませんよ」

たしかに第18共徳丸には震災遺構としてのインパクトはあるだろう。町中に船があるという非日常は、震災から時間を経ても見る人に津波の記憶を呼び戻させることだろう。現在もたくさんの人が第18共徳丸を訪れている。

でも、船のすぐちかくの瓦礫を利用した花壇に立てられた小さな看板に、地元の人たちの声が凝縮されているようにも思う。

ここに咲かせたいのは花。陸に上がった船ではないのよ――。