先週発表された「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)」の報告書が海外で波紋を呼んでいます。国内で福島原発事故を検証する動きは、国会事故調のほか政府事故調、東電の社内事故調、民間事故調の4つが知られていますが、今回の国会事故調の内容は、東電の事故調報告書や政府事故調の中間報告書よりもかなり踏み込んで、事故の背景にある「日本的な企業文化」「日本における組織の在り方」にも言及するものでした。
政府事故調の中間報告が東電から提出される情報に頼らざるを得ない状況を露呈したのに対して、国会事故調の報告書では大規模な聞き取り調査から「津波到来以前に地震で原発施設がダメージを受けていた可能性」も指摘しました。一方、産経新聞≪英各紙 国会事故調報告に苦言≫(2012年7月8日 8時05分)は、イギリスの新聞ガーディアン紙での次のような指摘を紹介しています。
ガーディアン紙は「フクシマの惨事の中心にあった日本文化の特徴」と題した記事で報告書の前文を引用し、(中略)6日にも「文化の名の下に隠れるフクシマ・リポート」と題した記事で、「重大な報告書と文化を混同することは混乱したメッセージを世界に与える」と批判した。
また、6日付のタイムズ紙の記事として、
「過ちは日本が国全体で起こしたものではなく、個人が責任を負い、彼らの不作為が罰せられるべきものだ。集団で責任を負う文化では問題を乗り越えることはできない」とコメントした。
国会事故調の報告書が示した内容とあわせて、海外からの批判についても考えていく必要があります。個人の責任を問うのではなく、事故の背景をしっかり見極めたいという姿勢と、あくまでも個人が責任を負うことによって秩序は保たれるべきとの見解。どちらが正しいということは簡単に論じられませんが、事故から何を学び、未来に向けてどう行動するのかを考える上で、このふたつの視点はどちらも重要なものに思えます。(詳しくは続報します)
文●井上良太